美術室の窓から差し込む夕方の光は、絵具のチューブや筆を柔らかく照らしていた。
壁際では、油彩の匂いと、乾きかけのキャンバスが静かに時間を刻んでいる。
「水瀬、この色……もっと深くしてみないか?」
紺野先生が、私のキャンバスを覗き込みながら言った。
丸メガネの奥の目は、いつも通り淡々としているのに、色の話になるとほんの少しだけ熱を帯びる。
「深く……ですか?」
「そう。君の中にある“まだ名前のない色”を混ぜてみろ。絵の具だけじゃなく、経験や感情ごと」
その言葉に、少し戸惑った。名前のない色。
──それは私の中で、まだぼんやりとしか見えない。
ドアが開く音がして、澪と千尋が入ってきた。
澪は部活の用事で来たらしく、紙袋を持っている。千尋は、手にノートと万年筆。
「蒼ー、紺野先生に文化祭の展示相談しに来たんだ」
澪はまっすぐこちらに歩いてきて、紙袋を机に置いた。中には色とりどりのリボンや小物が入っている。
「文芸部と美術部で合同展示とかどう?」と、千尋。
「物語と絵、両方で一つの世界を作るの。お客さんに“読む”と“見る”を同時に体験してもらうんだ」
紺野先生は腕を組み、ゆっくりとうなずく。
「悪くないな。水瀬、お前はどう思う?」
「……面白そうです。でも、テーマは?」
「そこは私に任せて!」
千尋の目がきらっと光る。
「人の心の色にまつわる短編を書くよ」
そこへ、廊下の方からドタドタと足音が近づいてくる。
海野陸が、部活帰りのジャージ姿で顔を出した。
「おー、全員そろってるじゃん。文化祭の話?」
「サッカー部関係ないでしょ」
と澪が笑う。
「いや、看板とか宣伝ポスター手伝えるかなって。美術部の絵、めっちゃ目立つじゃん。俺、絵心ゼロだけど色塗りくらいはできるかも」
陸のその一言で、部屋の空気が少し和んだ。
千尋が
「じゃあ、宣伝コピーは文芸部で考えるから」
と乗っかり、澪は
「小道具は私が作る」
と即答した。
紺野先生は、そんなやりとりを黙って見てから、ぽつりと言った。
「いいな。バラバラの色が混ざって、新しい色になる瞬間だ」
──その言葉に、胸の奥で何かが小さく揺れた。
私の中の、まだ名前のない色が、ほんの少しだけ輪郭を持ちはじめている。
それはきっと、私ひとりでは出せない色。
夕陽が沈みかける美術室で、私たちはそれぞれの色を持ち寄って、ひとつの絵を描きはじめていた。