まるで燃えているようだった。
那古野城から三河の国境に向けて伸びる丘陵が朱色に包まれていたからである。
朱く染めているのはツツジの花。
雪が深い冬の次の春、ツツジは例年以上に濃く、朱く、世界を彩るのである。
野原に寝そべって空を見上げていた少年には、それがいくさによって点けられた火炎にしか見えなかったが。
「空はこんなにも青いのに、地上は戦火で真っ赤っかだ」
だから、あえて地上の景色から目を逸らし、空だけを眺めていた。
少年はさらに悲しくなってきた。
彼は去年元服している。
つまり、今年か遅くても来年にはいくさに参加しなければならない。
拒否することはできなかった。
なぜなら、彼はこの寝そべっている野原を含んだ広い土地を支配する殿様の息子であるからだ。
幼名は吉法師。このあたりの守護代である織田弾正忠信秀の嫡男三郎信長というのが、彼の名前であった。
そのこともあって、信長は自分の育ちが嫌になっていた。
ときに憎しみすら覚えるほどに。
自分がいくさをしなければならない身の上だからだ。
武士の嫡男である以上、否応なしにいくさをしなければならない。しなければどうなるのか、すでに骨身にしみて理解できている。理解するしかなかった。
自分の育ちから逃げだせばもう死ぬしかないのだ、と。
「……風は目に見えぬのぅ」
天を吹き流れる風は不可視だ。風が吹いていることは、鳴り響く音と白い雲の動きによってわかるが、実際にどのような勢いでどちらの方角からやってきているのかまでは人の目にはわからない。
もし、これがくっきりと視えたのならばきっと趣があって面白いだろうな。
と、そんな益体もないことを考えるのは好きだった。
いくさのことも、家族のことも、つかの間だけ忘れられるからである。
「母上……」
もっとも、突き詰めていくと、信長が頭に浮かべたくないのはただ一つ―――母親のことであった。
彼の母親は、信長のことを嫌っている。
昔から同腹の弟信勝のことばかりをかわいがっていた。
近いものには、信長よりも信勝のことを織田家の嫡男にしたいとまで口にしているそうだ。
何故かというと、理由は二つある。
まず一つは、信長が産まれたときに一度死んでいたことがある。
母親の股から産まれたとき、とりあげられてすぐに呼吸を止めてしまったのだ。
十四年前。
信秀の継室である土田御前にとって初めての子供―――そして、男子だとわかったときに居並んだ産婆たちは興奮に包まれた。
一人が、男子の誕生ということをたまたま城に居合わせた父の信秀に告げに全力で走ったほどだ。
ただ、その赤子は誕生の一鳴きをあげたあと、ぽっくりと動かなくなり、そのままあの世に旅立ってしまった。
落胆が場を支配した。
出産の激痛のため、辛うじて意識を保っていた土田御前は初めての子供が死んでしまったことを知り、哀しみの挙句気を失ってしまったほどだ。
信秀が駆け付けたときには、死んだ嫡子は清潔な布の上で、ぴくりともしない死骸になり果てていた。
信秀は、土田御前を気遣い、別室に連れていくように指示を出して、待望の長男だったものの死骸を悲しみに満ちた双眸で見詰めてから外へと出た。
肩を落として廊下を進む信秀の背中に突然ぶつかる音がした。
一人の産婆の叫びだった。
何事かと振り向くと、産婆たちが信秀を呼んでいた
急いで戻った信秀は、自分を呼び戻した産婆の手に抱かれた赤子が大きな産声をあげているのを見た。
すぐに理解できなかった。
この赤子はついさっきまで完全に死んでいたはずなのに。
だが、そんなことはどうでもよい。
諦めていたはずの嫡男が無事に産まれたのだとわかったのだから。
信秀は泣きながら笑い、織田家の将来を担う我が子の誕生を喜んだ。
―――だが、このことが土田御前の精神にとっては悪く働いた。
一度死んだ子供は不吉だと思い込んでしまったのだ。
信秀が吉法師と名付けたのも、ある意味では土田御前のためであったのだが、彼女はかたくなに初めての息子を遠ざけた。
さらに運が悪いことに、吉法師は言葉をしゃべりだすのが、他の子供よりも一年ほど遅れてしまった。
現在でも、持って生まれた性格や周囲の環境で言葉の遅い子供は一定数存在する。
彼らは言葉の意味が理解できなかったり、聴力に問題を抱えていたりする場合や、もともと脳機能に障害があったりするなどの理由がある場合がほとんどである。時間が経てば他の子供同様に育っていく。
しかし、親の中には、言葉の遅れた子供を馬鹿であると思い込み、しつけと称してきつくあたるものたちがいる。
知能にいささかの問題もないのに、ただ喋りだすのが遅れただけで劣った子供だとレッテルを貼ってしまうのだ。
そして、哀しいことに土田御前もその種の親であった。
自分の産んだ次子がすぐに言葉を話し出したこともあってか、吉法師のことを「あのようなうつけ」と蔑みだしたのだ。
この二つの理由をもって、物心がついたころには、吉法師はほとんど普通の子供と変わらない成長を見せていたのにもかかわらず、実の母親は二度と彼のことを見ようとはしなくなった。
それどころか、吉法師について、乳母の乳首を噛みちぎった鬼子というでっちあげの悪評を率先して広める始末であった。
物心ついたときには、彼女は息子にとって、不俱戴天の仇といってもいい存在になり果てていた。
あまりにも吉法師にきつくあたるため、信秀が九歳のときに身柄を那古野城へと移さざるを得なかったほどである。
これらのことがあって、元服して吉法師から三郎信長に名を改めた今となっても、信長は家族について満たされぬ空虚に身を浸し続けざるをえなかったのである。
「風になりたい」
それはつまり、誰の目にも映らぬものになりたいという嘆きにすぎない。
一度死んだうつけの少年。
今の信長の評判であった。
「……戻ろう」
上半身を起こすと、間近に迫る戦火のような朱色が視界に入ってくる。
この地上はいくさで溢れている。
むしろ、何もかも忘れていくさに飛び込めたら、もしかして自分の空虚は埋まるのかもしれない。
立ち上がり、近くの枯れ木に繋いであった馬のもとへと歩む。
風が南から吹いてきて、彼の全身を嬲った。
その先に、白い馬がいたような気がした。
このあたりに野生の馬はいない。しかも、白馬など産まれてから一度も目にしたことのない希少なものだ。もしかしたら、誰かの乗馬かもしれない。
どこかからか馬の嘶きが聞こえてきた。
ああ、気のせいではなかったのか。
信長は美しさを感じさせる白に惹かれるものを感じながらも自分の馬に乗って、那古野城へと帰っていった……