前屈の姿勢のまま小石だらけの川岸を走り抜け、水淵ギリギリの竹林に馬盗人は飛び込んだ。
逃げるため、隠れるため、というよりも誘うためであろうか。
竹林の入り口で立ち止まり、振り返って信長の方を見る。
乾いた土らしきもので化粧された顔には白い二筋の線が引かれていた。まるで滂沱の涙を流しているようでもあった。
しばらくじっと佇んだ後、無言で奥へと去っていく。
(やはり誘いだな)
信長はそう判じる。
覚えている限りここでは竹と竹との間がやけに広い。
並足までは阻害されるが馬でも行けるはずだ。
馬上の信長との距離を引き離そうとするならば、もっと狭苦しい場所を選ぶのが妥当である。わざとそれをないのだ。
じわじわと腹中に湧き上がるものがあった。
死に急ぐ気はないが、あの馬盗人からの挑発を無視するにはまだまだ信長は子供過ぎた。
竹林の奥に眼を凝らすと、明らかに誘っているように背中を見せている。
(許せん)
たかが知れた馬盗人の分際で、武士を愚弄しようというのか。
最後に残っていた冷静さをかなぐり捨てて、信長と愛馬は竹林に踏み込んでいった。
危険はある。先ほどの手斧をまた投げてくるかもしれない。恒興は偶然命を拾ったようだが、彼にその運があるかはまだわからない。命がけの鬼ごっこなどやったことはないのだから。
誘いに乗った以上、何が飛んできたとしても覚悟の上だ。
愛馬を駆って、馬盗人の背を追う。
踏み込んでみると、案外走りやすい場所だった。
だが、先行した馬盗人に追いつくのは至難の業であった。
なぜかというと、馬盗人は猿のように竹林を跳ね回るからであった。
草履も履いていない裸足のまま、竹を足場にして跳ね回り、滑りやすそうな斜面を走って、深い藪を容易く飛び越えていくのだ。
比較的駆けやすい道を選んでいかざるをえない騎馬に比べてあまりにも速すぎた。
噂に聞く伊賀甲賀の忍びか、それとも山道に馴れた生粋の山窩の類いでなければこれほどの動きはできないであろう。尋常ではなかった。
(もしや、他国の草であったか)
それにしてはおかしな格好をしている。あんな目立つ姿の間抜けな草――間諜はそうはいないだろう。
考えられるとしたら、
しかし、それとて、もし彼が気まぐれで馬盗人退治を実行しにこなければ徒労でしかないのだ。もっとも、相手の意図がわからないとしても捕まえてしまえばそれでいい。すべてがわかる。
信長が馬の尻を刀の鞘で叩いたとき、ひゅんと矢が飛んできた。
振り向きざまに矢を放ってきたのだ。
馬盗人はいつのまにか短弓を握っている。
全速力で走りつつ振り向きざまに射撃をしながら、まるで足に眼がついているかのように体勢を崩しもしない。
馬の速さがなければ胸に刺さっていただろうほど、凄まじい腕前だった。
(手斧といい、弓といい、いい腕をしておる。だが、あいつは捕まえなければ気が済まん)
技術に感心しつつも、実際に殺されかけたことで、さらに信長は熱くなっていく。
武家の御曹司であることなど忘れ、大きく馬に鞭を入れた。
がっと加速し、一瞬で馬盗人に追いつく。
所詮、どれだけ速くても人の足では馬には敵わない。
馬蹄で轢いてやるという覚悟で馬盗人に寄せた。
乾いた土で化粧された顔が引きつる。
驚愕ではなく、してやったという風の馬鹿にした破顔だった。
(なんだと)
馬盗人が斜め前から手綱を掴んだ。
身体をねじり、竹を蹴って、くるりと回転する。
あっという間に信長の背後に回った。
しかも、恐ろしいことに馬の腰の上に立ったのだ。
その気配だけが背中越しに信長に伝わる。
彼からしたらありえない曲芸的な動き。だが、馬盗人からしたら慣れていると思われる体裁き。むしろ、余裕さえも感じさせた。このような軽業、信長とて初めて見る代物だった。伝説の天狗を想起させるとてつもない動きだった。
まさしく人のものとは思えない。
(まさか、初めからこれを狙って――)
竹林を馬の疾走中に振り向いて視線を切ることはできるはずがない。
いかに馬術の達人でも不可能な真似だった。
『この馬はもらう。代わりに、これと交換だ』
聞きなれない訛りのある片言の言葉で馬盗人は喋り、驚く信長の襟もとに何かが潜り込んできた。
馬盗人が挿し込んだのだ。
それが何かを確認する前に、
『烏の羽をくれてやる。では、成立だ』
襟を掴まれて、恐ろしいほどの力で引っ張られた。馬から信長を引き剥がそうとしているのだろう。走っている途中で落馬したらただでは済まない。
「くっ!」
必至になって手綱を引き、馬を制御する。
万全とはいえないが、それでも必要な力は伝わって愛馬が前肢を止めて急な停止を試みる。これからどうなるかわからないが、何もしないよりはよい。信長の負けん気だけが先走った結果である。
強引に止めようとしたため、騎手は慣性の法則で前につんのめってしまう。
もちろん、どうやってか馬の腰に立っている盗人も物理法則に逆らうことはできない。むしろ、立っていた分反動は大きかったろう。
『おおおおおっと!』
大げさな叫び声が聞こえる。
天狗のごとき妖もどきでも反応は同じなのだ。
馬の尻が跳ね上がったおかげで、前方に矢のようにすっ飛んでいく。
信長の襟は解放され、落馬せずにすんだ。
ただし―――
「ああああ!」
馬もそのまま前倒しになり、結局は信長も盗人の道連れとなってしまう。
打ち所が悪ければ、そのままあの世行き間違いなしの勢いだったからである。
竹林を抜けて、藪へと飛び込んでいく。
死ぬ瞬間であったとしても目など決して瞑るものかと、武士としての最後の意地をみせて、まなこをかっと開く。
青が広がっていた。
水面に煌めく光とともに。
白い飛沫が上がり、水柱が一つ立った。
信長よりわずかに先に飛ばされた馬盗人が沢に頭から突っ込んだ証だった。
結局、追いかけっこの末にこのあたりを一周してしまったようである。
かなりの高さの崖から勢いよく落水したので全身を強打した結果、信長の意識は薄れていきそうになった。
だが、そんな彼よりも水中で踊るかのようにじたばたと暴れる盗人の方が深刻だった。
完全なかなづちのようだ。
放っておけば問題なく水死するだろう。
(うつけものが)
消えかかりそうな意識をなんとか保ちながら、信長は急いで泡を口から噴き出し続ける男のもとへと深く潜っていった……