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第6話 〈歩む死〉


 はっと目を覚ますと、まだ太陽は頭上にあった。

 随分と長い間気を失っていたようだったが、それほどの刻は経過していないようだ。

 起き上がろうとしたが、呻き声が喉から漏れるだけで、全身が痛くて動けなかった。

 耳には水の音が聞こえてくる。

 どうやら、横たわっているのはさっきの沢の淵あたりらしい。

 背中にゴツゴツした石と軟らかい感触があるので、誰かが布を敷いていてくれているらしい。

 少なくとも信長がやった訳ではない。

 視界が霞んでいたので、なんとか手を動かしてこすると、いくらかぼうっとしているが、意識と思考が戻ってきはじめた。

 無理に起き上がろうとすると、


『……まだ、動くなよ。水は飲んでいないが、肉体中が痛くて仕方ないはず』


 さっき耳にした妙な訛りのある声がした。

 あの馬盗人のものに違いない。

 信長同様に無事だったようだ。

 むしろ、溺れ死ぬところを信長が生かしてやったといってもいいはず。

 ぐったりとした盗人を抱えて岸まで運んでいった記憶が蘇る。

 そのあとのことは何も覚えていない。

 視線を向けると、盗人は裸で胡坐をかいてなにやら作業をしていた。


「勝三郎はどこだ」


 おそらく下流に置いてきてしまっただろう小姓のことを口にした。

 それに対して盗人が答えるよりも先に、天が翳った。

 太陽が隠れたのかと思ったが、雲一つない青天であったことを思い出す。

 ぶるるるという嘶きが上から落ちてきた。

 愛馬かと思って視線をあげると、白い面をした馬が彼をまっすぐに見下ろしていた。

 あの時の白馬だった。

 遠目でも見事な馬体と毛並みであったが、近くで見るとそれが例え真下から見上げる姿勢であっても十分に納得できた。

 鬣が陽光を反射し、銀の炎にように揺らめいている。


 ―――なんと美しい。


 ここまで美しい馬体は見たことがない。

 思わず状況を忘れ、うっとりと見惚れてしまった。

 後年、信長は馬に眼がない武将と呼ばれ、京都で二度も天皇を招いて馬揃えを開催するなど重度の馬愛好家として名を遺すことになる。その原体験が、このときのやりとりを原因とするものだと、将来の彼が知る由もないことであるが。

 その白馬に対して、何やら馬盗人が話しかけてきた。

 先ほど聞いた見知らぬ言語だった。

 やはりどう考えても異国出身の人間なのだろう。

 当然馬からの反応はない。


「……馬に話しかけてどうなる」

『おれの父の父は言った。ウマも口を利く。ヒトさえいなければ。ヒトがいるときに喋らないのは、バカのふりをしているだけなのだ』

「そんなことがあるものか。だったら、そやつは何と喋っているのだ」

『……日ノ本のウマの言葉はわからん』


 なるほど、馬にもお国言葉があるものなのか、と妙な感心をした。

 もっとも、このおかしな異人が狂人の類いでないという保証はどこにもなかった。

 ただ単に訳のわからないことをもっともらしく喚いているにすぎないのかもしれないのである。

 しばらくすると、異人の馬盗人まで白馬と同じように信長の上に無礼にも屈みこんできた。

 水で溶けたのか、顔面に塗られていた土は綺麗さっぱりに落ち、素顔の顔つきが見えた。かなりの鷲鼻で、予想に反して城のおとな衆よりも少し若いぐらいの年齢のようだった。それでも信長よりは干支一回りぐらいは歳上だろう。

 色素の薄い瞳で信長を観察してくる。


『――なんで、おれを助けた』

「知らぬ。こちらも死ぬところだった」

『おまえは、死なない。たとえおれが、死んだとしても』

「……死なないものなどいない。自ら死ぬか、誰かに殺されるか、人の死に様はどちらかに決まっている」

『間違えた。おまえは、戦いの中では死なない。さっきのおまえは、おれと戦いを行っていた。だから、死なない』


 意味がわからなかった。やはり頭がおかしいやつだったか。

 会話の最中に気が付いたときには、身体がようやく動くようになっていた。

 なんと盗人が手を貸してくれたおかげで、上半身を起こして河原に座り込むことができた。

 背中に敷いていたものは盗人の袖を外した湯帷子だった。

 溺れようとしているところを助けた代わりに介抱をしてくれていたということだろうか。

 さっき作業していたのは焚火起こしだったらしく、燃える火を囲むように濡れた物が並べられて、乾燥するのを待っていた。中には信長の着物もあった。


「とっとと逃げないのか」

『どこにいっても同じ。去るだけならばいつでもできる。でも、行かない』

「おれが兵を率いて、おまえを狩りに来ることもできるのだぞ」

『おまえは偉大な戦士だ。おれはおまえのような戦士と巡り合うために流離ってきた。だから、もうどこかへ行く必要はない』


 会話の噛み合わなさに、もともと短気な性格の信長は爆発寸前にまでなったが、盗人はどこ吹く風という流し方だ。

 言葉が通じるだけでは伝わらないことは山のようにある。

 そんな真理を産まれて初めて理解したような気がした。


「ここはおれの父上の領地だ! さっさと出ていけ! 馬盗人などにうろつかれては迷惑だ! しかも、おまえのようなおかしな異人など!」

『どうも歓迎されていないようだ。―――では、また会おう、キモサベ』


 そういうと、盗人は敷いてあった自分の服をまとい、皮で出来た帯をきつく締めた。

間近で見ると、やはり異国風らしい奇妙な意匠が施してあり、なんだかわからない干した食い物らしきものまで吊ってある。


「おい、待て」

『なんだ』

「―――おれが戦いの中で死なないというのはどういうことだ」


 それだけが何故か気になった。

 狂った異人の戯言だと聞き流せない何かが。

 信長の問いに、盗人はしばらく答えず、身支度が終わると背中越しに言った。


『おまえは、ショショーニの言葉で〈歩む死〉というものだ。一度死に、使命を抱いてあの世から帰還したもののことだ。ゆえに〈歩む死〉は戦いでは決して死なない。そう伝えられている』


 重々しくそれだけを告げると、盗人はさっさと再び竹林の奥へと消えていった。

 焚火の煙を見て恒興がやってくるまで、信長は茫然と消えた方角を眺め続けた……

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