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第7話 初陣支度


 信長の初陣については、太田牛一の「信長公記」にこう記されている。 


「天文十六年丁未

翌年織田三郎信長御武者始、平手中務丞其時之出立、紅筋のすきん・はをり・馬鎧にて駿河より人数入置候三州之内吉良・大浜へ御手遣、所々放火候而其日ハ野陣を懸させられ、次日那古野に至而御帰陣也」


 当時、尾張の織田信秀と西三河の松平広忠は深刻な対立状態にあった。

 もともと広忠の父清康が家臣によって暗殺されたことをきっかけにして、松平氏を掌握した松平信定は、信秀の妹を妻としており、友好的な関係を築いていた。

 信定によって追放されていた広忠が今川義元の支援を受けて岡崎に戻ると、信定は家臣団の裏切りにあい帰順せざるを得なかった。

 そして、天文七年に信定が死んだことによって、広忠が実質的に松平氏の頭領として君臨することができるようになる。

 那古野城を手に入れて熱田を支配した信秀は、伊勢神宮へ七〇〇貫文を寄付できるほどの力をつけ、三河小豆坂で今川勢と戦うなどの勢力拡大政策を続け、それまで広忠側だった知多半島の緒川や刈谷を支配する広忠の義兄弟水野信元までも味方に引き入れた。

 翌年、美濃の斎藤道三と戦い一敗地に塗れはしたものの、信秀は順調に力をつけていく。

 一方の今川義元は、北条氏康、武田信玄と和睦し、東側の憂いを取り除いてから、西の三河への侵攻計画を進めていた。

 信長が元服した年の十月中旬頃から東三河の今橋城の戸田氏を攻め始め、さらにその翌年にはこれを攻め落としている。

 この動きに対して、信秀も西三河へと出兵し、安城城を攻め取っていた。

 愛知県史通史編によると、義元と信秀の間で西三河を分けあう話がついていたという説があるが、広忠の存在をお互いがそこまで無視するとは考えられないので、おそらくは偶然の機会の一致であろう。

 考えうる証拠として、安城を奪い取った信秀は、岡崎城を包囲して広忠を降伏させると、竹千代(後の徳川家康)を人質として連れていったことで、織田と今川は深刻に対立することになっていくがあげられる。

 そして、信長が初陣を飾るようになったのは、このときの対立がきっかけであった。



「長田重元が羽城をでるそうだ」

「信広さまの安祥城を攻める気か?」

「……いや、河合から受けた報せによると、境川を遡り、尾張の中央を目指すつもりらしい」

「なんのためだ?」

「手勢二千をもって、織田家のどなたかの身柄をかどわかしに来たらしい」


 傅役の平手政秀、林秀貞はついさっき末森城からきた早馬からの報告を吟味していた。

 信長につけられた四家老のうち、青山与三右衛門信昌が加納口の戦いで討ち死にしているため、内藤勝介を含めた三家老による話し合いとなっていた。

 出陣となればこれが初陣となる信長には、方針が決まってから伝えるということでおとな役たちの意見は一致していた。

 この時期には、すでに家老の身でありながら信長を見限っていた秀貞であったが、二倍以上の彼我戦力差を考えると慎重にならざるを得なかった。

 支持はしていないとはいっても、織田家の嫡子が初陣で討ち死にするのは家中の士気に関わる。仮に囚われて人質にでもなろうものなら最悪の状況になりかねない。林秀貞の地位までも失墜するのだ。


「しかし、三河勢にいいように領地を荒らされて放っておくのは殿の沽券にかかわる」


 内藤勝介は四おとなという立場であるが、林秀貞や平手政秀とは対等ではない。

 ただし、足軽大将として兵たちをまとめる役割を与えられているため、信長配下としてはもっとも実戦的な役割を有する。

 いざ、いくさとなったら城中で最も頼りになる男であった。

 足軽たちが若き殿様を意外と慕っていることもあり、内藤勝介自身は他の上級家臣たちと違い、むしろ親信長派だといってもいい。

 今回のいくさでの初陣を成功させることで、軽んじられている信長を家中で認めさせたいという思いを内心では抱いていた。


「此度の件は、末森城の信秀さまからのご命令である。形だけでも兵を進めねば若がおしかりを受けかねない」


 平手政秀は結局のところ、信長の保身が大切である。

 父親の言うことを聞かず、兵も出さず、城に閉じこもっていたということになったら悪評は免れがたい。ただでさえ、生母からうつけと蔑まれているのだ。臆病という噂が立ったらすべての領民にそっぽを向かれかねない。

 ゆえに、政秀は兵を出すだけ出して、適当に戦闘をして引き上げるという策を口に出した。

 当然、立場の異なる二人の傅役たちを説得するのは難しい。

 やはり、経験不足であったとしても指揮官である信長が決めるしかないのだが……


(若は……大丈夫なのであろうか……)


 政秀自身、心の奥底まで信長を信じ切れてはいなかった。

 性質も含めて、その能力までも。

 ここ最近の信長は、小姓の池田恒興と数名を引き連れて、朝から晩まで城の外に出ていき、暗くなると戻ってきて、朝まで飯を食らって寝るというだけの少年だった。

 恒興の話を聞く限り、ほぼ水練と馬術の鍛錬に費やして、小姓たちと相撲をとったりしているらしい。

 武士の子としては心身を鍛え上げることに異存はないが、政秀の用意した武芸指南からは逃げ回り、武士としての教養を蓄えようともしない態度には苛々していた。


(うつけとは言わないが、織田家の頭領としては向いていないのではないか)


 そう、思わざるを得ないのだ。


「勝介、殿は今どこにおられる? やはり、軍議の場にはいてもらわねばならぬ」


 と、この中で最も城外での信長の行方を知っていそうな内藤勝介に尋ねた。

 信長に従っている者のうち、小姓ではないものはほとんど彼の配下なのだから、そちらから報告を得ているはずである。


「―――うつけ殿なら、西の原だろう。鷹狩りだ」

「鷹狩りだと。幾人連れて行ったのだ」

「知らん。もしかしたら、勝三郎と又左右衛門だけかもしれんな」

「三人で鷹狩りなどできるものか」

「それも知らん。うつけ殿の考えることだ」

「勝介、若様をうつけ殿と呼ぶな。民どもが真似たらどうする」

「なに、ご本人もさして気にしはおらんだろうさ。特に、近頃は噂の類いを気にする素振りをみせなくなった。元服したおかげかのぅ」


 いまいち楽観的な同輩を苦々しく思いながら、政秀は小者に信長をここへ連れてくるように指示を出した。

 結局のところ、いくさをするかどうかを決めるのは大将の仕事だ。そして、今回、織田家の大殿から命じられたのは信長なのである。

 信長が決断し、おとなたちが采配すればいいのだ。


(……若、わしは若の器量を信じておりますぞ)


 政秀は口から出る前にため息をなんとか噛み殺した。

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