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第8話 その名はイサクァ


 信長は、末松城から来た父親の命令内容を知っていた。

 内藤勝介に仕えている足軽の一人がこっそりと盗み聞きしていて、城を出る際に報告してきたのだ。

 初陣が決まった、ということである。

 通常の武士の子ならば、これから望むいくさに身震いし、血が湧きたっているはずである。

 だが、彼は違った。

 ほとんど興味がわかなかった。

 弓馬の腕を磨くのは好きである。水練も、相撲も、走ることも好きであった。むしろ、それだけに没頭していたといってもいい。

 一方で、必死になって平手政秀が教えようとする軍学にも礼儀作法にも興味はなかった。

 わずかに好奇心をそそられたのは、能と狂言ぐらいのもの。

 ゆえに、ほとんどの時間を城の外で過ごし、城とは飯を食って雨風をしのいで寝るだけの棲み処ぐらいの認識でしかなかった。

 甘やかしてくれるものもいない、褒めてくれるものもいない。

 まだまだ幼い面の残った少年にとっては味気のない辛いだけの場所であった。


『―――どうした、キモサベよ』


 最近、野原で寝転がっていると、あのときの異人の馬盗人が図々しくも話しかけてくるようになった。

 こちらは領主の息子としていつでも捕まえやってもいいのだぞ、と何度も凄んでみたがどこ吹く風だった。

 まだ蛙の面に小便をかけていた方が、効果がありそうであった。

 寝そべった信長の脇に断りもなく座りこんで同じ方向を見やり、眠くなってきたのか欠伸をする。


「……おまえ、まだ盗みを続けているのか」

『盗んでいない。交換だ。ショショーニは対価もなしに他人の物を奪っていったりはしない』


 いつものように顔に泥を塗りつけて、ひび割れた皮膚のように見える顔が無表情に答える。

 百姓たちに聞いたところ、確かにこの盗人はものを獲っていくのだが、律儀にそれに相応しいものを置いていくらしい。

 金ではなく、鹿や獅子の肉、あるいは木の実、ときおり山芋などを。

 何度か話したことによると、どうも貨幣経済というものを認めていないらしく、盗んだ馬も別の何かと交換してしまったとのことだ。

 思えば初めてやりあったときも、信長の着物の襟に烏の羽を差して、その交換として馬を持っていこうとしていた。

 それがショショーニという部族のやり方だと嘯いていて、悪気というものの欠片もないようであった。

 しかし、こんな奇妙なうえに物騒なかりそめの客に領内に居座られても城主としては困るので、信長は何度か兵を率いて追い掛け回してみたのだが、まったく捕まえることはできなかった。

 そのうち、どうやら完全に腰を落ち着ける気になったらしく、二人が出会った野原の一画に三角錐の小屋を作って住みつきだした。

 おかげで信長にとってお気に入りの場所で昼寝をすると、忌々しい小屋と住人が視界に入るようになってしまった。

 しかも、彼のどこを気に入ったのか会うたびに馴れ馴れしく声をかけてくるのだ。


「おまえがそのショショーニとかいう異国の集落の出身だというのはわかった。で、どうして、国に帰らない」

『でかい船で何日もかかる。いまのこの国にはない船だ』

「港に連れて行ってやる。それで、別の大きな港へいけ。異国からの船もどこかにいるだろう。物珍しいからすぐわかるはずだ」

『この国の戦士はよその船を敵だと思っている。追い出されるしかない。まず、どこに行っても無駄』

「探してみなければわからんだろう」

『ツダも言っていた。おれはツダの言葉が正しいと思っている』


 盗人の話にはよくツダという名前が出てくる。

 話を聞くと、ツダはこの異人の盗人を伊勢あたりまで連れてきて、言葉を教えてくれた恩人らしい。ただし、何やらあって、ツダのもとから追い出され、這う這うの体で美濃から尾張まで流れてきたものらしい。

 どうせならばツダが最後まで面倒を見ればいいのに、と信長はまとわりつかれるたびに苦々しく思っていた。


「いつか、帰れればいいな」


 多少の同情もあって、信長は珍しく優しいことを口にした。

 だが、そんな歩み寄りはすぐに拒否されてしまう。


『いや、無理。おれは帰らない』

「……帰れ」

『帰らない』

「帰れよ」

『無理だ。おれは〈悪霊ウェンディゴ〉を倒さねばならない。おれはショショーニ随一の〈悪霊〉狩りだからだ』


 勧められた帰郷を頑なに拒もうとする盗人。

 信長は上半身を起こし座りこむと、片膝を立てて向き合った。

 刀を抜こうとするとすぐに察知して距離をとろうとする勘の鋭さがあるため、あえて遠くに置く。

 すでに敵意はないだろうという読みもある。


「なんだ、そのうぇ……なんとかとかいうのは。そいつを狩りたてればおまえはここから出て行ってくれるのか」

『違う。〈悪霊〉狩りはおれの業だ。しなければならないのであって、それが目的ではない』

「わからんことをいう。で、おれにまとわりついているのは、何かをさせたいのだろう。望みをいえ。ことと次第によっては父上にかけあってやってもいい」


 かなり妥協したつもりだったが、この好条件を異人は拒絶した。

 素性もわからない、手癖も悪い、流れ者の異人を領主に口をきいてやってもいいというのに。


『おれを助けるのは、おまえだ』

「なんだと?」

『おまえは〈歩む死〉だ、キモサベ。しかも、銀の馬がおまえを選んでいる。おれのために働くものとしては最高の男だ。素晴らしい……』


 脳みそが腐って爛れているのか、まるで何を言っているのかわからない。

 こいつに比べたら、俗に塗れた坊主の法話の方が納得できると、信長は眉間にしわを寄せた。

 あまりのうさん臭さに斬り捨ててやろうかとも考えたが、その瞬間に逃げられるのはもう経験則上わかりきっている。


「おれはおまえのためになど動かん。あまり舐めるなよ。〈歩む死〉だろうが、なんだろうが、おれはおまえのいうようなものではない。織田三郎信長は、どこまでいっても織田三郎信長よ」

『―――では、おまえが〈歩む死〉であることを教えてやろう』

「できるものかよ」

『おまえ、戦いに出る。今日の夜に』

「……なんだと」


 那古野城で大浜攻めの支度がされていることは、完全に秘されているはずだ。

 少なくともいくさの準備をしていることを大々的に喧伝するようなしくじりを、林秀貞ならばともかく平手政秀はしない。

 しかも、信秀の急使がやってきたのは朝方の事である。

 この盗人が知る由もない。


(どうやって嗅ぎつけた?)


 思わず刀に手をやろうとしたが、またしても勘がいいために後退りされた。


『幻が視えた。おまえが鉄を纏って馬を走らす幻が。……あれはこの国の戦いの装束のはずだ。ならば、おまえが戦いに出るのは間違いない』

「……いくさのこと、どこで知った?」

『たまにおれは大事を先に知ることができる。ショショーニの精霊の力だ。それでおまえは夜の戦いに出ると視えたのだ』

「夢のお告げのようなものか」


 この時代の武士たちは夢で見たことを起こりうる先の話として信じることが往々にしてあった。血生臭い現実に生きているが、迷信に弱く信心深いために予知夢というものを信じやすいのだ。信長にすらその傾向はあった。

 もっとも、それを聞いて信長は吐き捨てるように言う。


「おまえの夢が正しいとしても、おれは行かん。なぜなら那古野城の兵の数ではいくさにはまったく足りんからだ。率いるのが初陣のおれではまともな指揮もとれないだろう。わかったか。どうせ、うつけ呼ばわりで期待されていないのだから、そのまま城で寝ている方がずっとよいのさ。……いつか勘十郎がおれの首を獲りに来るまで、のうのうと暮らすだけだ」

『それはおれが困る』

「困るぅ!?」


 盗人の返事は、まったくもって自分勝手なものだった。


『おまえが〈歩む死〉であることを自覚してもらわないと〈悪霊〉狩りが面倒になる。だから、戦いに生きろ。まずは、今日の戦いに出るのだ。とっととやれ』

「ふざけるな!」

『大丈夫。おまえは死なない。傷もつかない。おまえを殺せるものは〈悪霊〉だけだ。そして、そのときはおれの出番だ。安心しろ』


 ひとかけらも安心できない説得をして、盗人は空を見上げた。


『いいか、太陽が沈むころ、風が吹き始める。おまえが戦いの支度をして、馬に乗ったころには嵐のように強くなる。烈風だ。まさに烈風なのだ。その風に乗って南へ駆けるがいい。そこに敵がいる―――いいか、敵は〈悪霊〉ではないから今日のおまえは死なない。絶対に死ぬことはない。だから、うむ、安心して馬を走らせろ』


 一瞬、ぽかんとしてから頭のおかしい奴の相手をいつまでもしていられないと信長は立ち上がり、刀を拾い、繋いであった馬にまで戻る。

 恒興が異人に殺気を放ちながら控えていた。

 初対面で殺されかけたのをまだ根に持っているのである。


「いくぞ。刻を無駄にした」


 馬に乗ったところで、信長を見送りながら立ち尽くしていた盗人が叫んだ。


『おれの名はイサクァだ! 風を司るものだ! 覚えるがいい! 風を読み、雨を呼び、霧を招くおれを信じろ、キモサベ!』


 まだ世迷言を続ける気らしい。

 その言葉を振り切るように、信長は背を向けて馬を駆った。

 あっという間にイサクァと名乗るおかしい異国の盗人から遠ざかる。

 いつまでも見つめられていることを背中に感じながら、


「なにが、キモサベだ。意味の通らぬことばかりを……」


 と、信長は苛々しなから独り言ちた。

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