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第9話 止められぬ烈風と灰燼に帰させる炎の舌


 那古野城に戻ってきた信長は、馬房に立ち寄ってから、一の間に向かった。

 城内には平手政秀と内藤勝介が招集した八百の兵がいくさの準備を始めている。

 信長はそれらを横目で見ながら、三家老の前に座った。

 軍議はまだなんの結論も出ていなかったにも関わらず、兵を集めた同輩たちを林秀貞が罵っているところであった。


「―――殿、大殿のご命令いかがいたしますか。大浜の兵は約二千。攻め込むのでしたら、急がないとなりませぬ」


 内藤勝介が問うた。

 この歴戦の男だけが陣羽織に着替えている。

 他の二人はまだ平服のままだ。

 出陣するのか、形だけで済ますのか、それとも城から出ないのか、何一つ結論が出ていない。


「いかに大殿のご命令でも寡兵では多衆には敵いませぬ。出陣をするだけで、大浜を回るのみでとどめるというのはいかがでございましょう」


 平手政秀は正面からのいくさは出来る限り避け、信長の面目だけをたてようという趣旨の献策を行った。

 ただし、何もしなければ尾張の領内を敵兵に蹂躙されるのを見過ごすことになる。

 それは避けなければならない。

 ゆえに示威行為としての出陣を行い、三河勢の出鼻をくじくのでよしという考えだった。


「むしろ、兵の損害を避けるためにここは大殿のご命令を聞かなかったことにするのも策でありましょう」


 武士としては臆病なほどに弱気な考えだったが、これを口にしたのが弾正忠家最大の武士団の長である林秀貞であるのならば話は変わってくる。

 彼の中では三河勢といえども二千足らずでは、尾張国内に甚大な被害は与えられない。

 敵の目的が熱田において現在織田家の人質となっている松平広忠の嫡子竹千代と交換できる人質の確保であったとしても、それだけの身分のものを狙って簡単にかどわかせるものではない。

 そうであるのならば、那古野城の手勢だけが兵を失い、割を食うのは避けるべきだ。

 秀貞の中には、場合によっては信長一人に責めを負わせればいいという薄汚い保身もないわけではなかった。

 そして、この三人の献策に対して、信長はどう答えたか―――


「……勝三郎、襖を開けよ」


 一の間の廊下に控えていた池田恒興がすっと襖を開いた。

 いつの間にか晴天だった空が黒く曇っていた。

 勢いよく黒雲が流れていく。

 激しい音が響いていた。


 風だ。

 風が吹いているのだ。


 信長はつまらなそうに舌打ちをした。


「あの盗人の言う通りになるのか」


 主が何を言っているかわからない三人の宿老に対して、信長は強い口調で言った。


「出陣じゃ。秀貞は城を守れ。爺と勝介はおれについてこい。―――大浜の羽城を焼きに行く。具足を出せ」


 それだけ言い放つと、飛ぶように表座敷へと移動する。

 彼のための具足と鎧が用意してあった。

 着替えを手伝うための下女たちとともに。

 内藤勝介の采配であった。

 何事か問おうとする三人を尻目に、恒興が「出陣だ、出陣だ!」と城内全てに鳴り響くような大声をあげて駆け出していた。

 信長の背中に何かを感じ取ったのか、内藤勝介もすぐに自分の役目を果たすために動き出す。

 林秀貞もであった。

 むしろ、最後まで信長の行動を理解できずにおろおろとしていたのは、教育係であるはずの政秀というのが皮肉である。


「爺、馬に蔵を置かせよ!」

「ぎょ、御意」


 元服が終わったばかりの少年の命に反射的に従い、政秀もようやく動き始めた。

 女たちが六具をとって信長の身体に甲冑を着せ始めても、慣れているのですぐに終わった。


「続けぇ!」


 玄関を出ると、外で待っていた前田利家の用意した愛馬に飛び乗り、カッカと駆け出した。

 恒興が呼び集めた百人ほどが大手口で若殿を待ち構えていた。


「これより先、南への風が強くなるぞ! この風に乗って、大浜の羽城とそのあたりの村をすべて焼き払う! たんまり油を持て、火をつけていない松明も用意しろ!」


 それだけを命じると、真っ先に南へと駆け抜けていく。

 最初は信長の言葉に半信半疑だったものたちも、城を出て境川沿いを下っていき、高取村、高浜村、碧海郡志貴庄までにいたると吹き付ける風の量が尋常でないものになっていくことに気が付いた。

 尾張でもあまり経験したことのない烈風だった。

 風上から下っていくにしても、背中を押す風の勢いで落馬しかねないものたちもでる有様である。

 信長は途中で馬を止め、輪乗りをしながら追いついてくる兵を待ち、待ってはまた走るというように、ついてこられるものたちを厳選していった。このいくさにおいては機動力が何よりも重要だと見抜いていたからだ。

 おかげで大浜に辿り着いた段階で信長についてきていた兵は二百ほどになってしまっていた。

 それでも、彼は先頭に立って駆け続けた。

 十二里半(約五十キロメートル)を一気に走りぬいた信長たちは、羽城を囲む松林に辿り着いた。

 ますます強くなる風の轟音が騎兵の音をかき消していく。


「むっ!」


 松林の先にこの強風の中何かが動いているのを信長は見たような気がした。

 そして、そのものに覚えがあった。


『キモサベ!』


 松林からでてきたのは、さきほど那古野城傍の野原で別れたはずの異人―――イサクァだった。

 風で飛びそうな頭の烏のはく製を手で押さえるのに必死なのが滑稽である。

 だが、そんなことは信長には関係がない。

 むしろこの場にいるのが不審すぎるのだ。


「何をしている!」

『この先に、多くの戦士が潜んでいるぞ』


 イサクァは想像もしていないことを口にした。

 伏兵がいるというのだ。

 なぜ、そんなことを知っているかという疑問よりも先に、信長はどういう訳か、その言葉を信じることに決めてしまった。

 すっと意味が胸の奥に落ちたからだ。


「―――数は?」

『多い。おまえたちの倍ぐらいだ』

「三河兵だな。もしかして、河合裏切りの報せを受けて長田重元が兵を伏せていたのか。厄介だな」

『いや、恐れることはない、キモサベよ』


 伏兵の存在を知った信長を諭すように、イサクァは言った。


『喜べ、おまえは〈歩む死〉なのだ。誰もおまえを傷つけられず、誰もおまえを殺せない。このままいけばいい。ただ駆け抜けよ』


 頭のおかしい異人はそう唆した。

 まるで自害をさせようとしているかのような内容を。

 なんとか信長に並走していた恒興は顔を真っ赤にして怒り、この狂人めいた異人を殺さねばならぬと決意させたほどだ。

 それも当たり前である。

 早く死んでこいと言うのと同じなのだ。そんなこと、初陣の殿様に勧めるなどありえないのだ。

 しかし、少年は一言ですませた。


「であるか」


 この異人の言う通りに風は吹いた。

 ならば、そこから先もこやつの言う通りになるだろう。

 不本意であったが、信長はおかしな異人を信じてしまったのである。

 信長は二百の軍勢を率いて、鞭をあげ、風に乗るかの如き行軍速度を命じた。

 将と兵たちが一体となったかのように駆け、まるで疾風となった。

 兵たちは猛火の傍らにいるかのように全身が熱く滾っていく。

 これが不世出の英雄の誕生であり、恐れおおくもその場に立ち会っているのだと魂のどこかが知っていたかのように。

 長田重元の不在のときに織田勢が攻めてくるだろうと配置されていた四百の兵は楽々と撃破された。

 向かい風ということもあったが、何よりも先陣を切る信長の速さが凄まじすぎたのだ。

 矢は届かず、そして当たりもせず、突き出した槍さえ一切かすりもせず。気が付いたときには突破されていた。

 信長自身も手にした刀で一太刀すら与えられなかったが、これほど危険な位置にいてかすり傷一つ受けずに敵陣を突貫していくのは壮観であった。

 次に続いた歴戦の尾張兵の破壊力に打ち砕かれ、中央を突破された三河勢は、立て直す間もなく、二百の騎兵から少し遅れてきた後続部隊と衝突してまたたくまに壊滅していく。

 信長率いる先頭の一群はそのまま平城である羽城に接近すると、大量の油を巻き、火矢を射かけ、あたりを完全に灰燼に帰すまで暴れまわり続けた。邪魔するものはすでにいなかった。

 夥しい火が木と藁で出来た家屋を赤い舌で舐めつくしていく。

 それを吹きすさぶ風が助長し、手の付けられない速さで広げていく。

 敵を焼き尽くす風と炎の舌による大蹂躙であった。

 風の力もあってか、大浜村は延焼に延焼を重ね、その炎は境川の対岸の亀崎からも目撃出来たほどと地元の伝承に残っている。

 このとき、後の彼のいくさぶりの片鱗がすでに見えていた。

 もっとも、攻め手にも損害が出なかったわけでもなく、大火に魅入られ狂ったせいなのか、尾張兵のうち十三人が引き際を誤って焼け死に、後に十三塚として葬られたという記録も残っている。

 とはいえ、一つのいくさの損害としては少ないものだ。


「さてこそ!」


 ほんのわずかな時間で敵陣に大打撃を与えたことを喜ぶ兵に、


「城に戻るぞ!」


 信長はいつのまにか収まった暴風のことも忘れて、生き残った兵をまとめ上げると、初陣のいくさ場から去っていった。

 日が上る頃には、すでに敵が追いついてこられない地域まで引き上げることに成功していた。

 初陣の少年が率いたものとは思えぬ、想定以上の大勝利である。

 ただ、信長自身はそこまで喜べたものではなかった。

 あまりにうまくいったいくさでの勝利の無上の喜びに浸る家臣たちに囲まれても、


「そういえば、あいつはどうやっておれより先にやってきたのか……?」


 そんな疑問などがわき上がり、頭から離れなかったからだ。

 彼の頭には、初陣での圧倒的な勝利よりも、例の異人についての疑問の方がずっと強くこびりついていたのである……

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