美濃の国には大蝮が棲むという。
戦国のものたちがこぞって噂した悪評がこれである。
美濃の稲葉山にある城の主は、この時代に相応しい梟雄として君臨していた。
名を斎藤山城入道道三。
安っぽい一介の油売りから、美濃の守護職土岐家の家老に仕え、その主人を弑逆して家老の地位を奪い取っただけでなく、最後には土岐氏までも追放して国を手に入れた男であった。
破天荒な蛮人でありつつ、見事なまでの教養も兼ね備え、武勇にも長けた強力な武将である。
槍の名人でもあり、自身の戦いの経験を活かして優秀な槍隊を組織し、紀伊根来寺の僧兵たちが鉄砲なる異国の武器を手に入れたことを知ると素早くこれを取り寄せて採用するという先見の明も持ち合わせた異才の持ち主。
そして、この美濃の怪物の手足となって働く家臣団は、敵に一切の容赦呵責のない「猛蛇の美濃衆」として四隣のものどもを震え上がらせていた……
「直元」
名前を呼ばれた氏家直元は顔をあげて、もう慣れきってしまった蝮の探るような視線を受けた。
「なんでござりましょう」
「吉法師。―――見立ては?」
「うつけというのは、ちと大袈裟かと。織田殿の継室である土田御前の周りのものどもが、弟の信勝をたてるために吹聴している噂に過ぎないと存じまする」
「釣り合いは?」
「わかりませぬ。姫様を嫁がせる相手として相応しいかというと。ただし、うつけ者の嫁が斎藤家の娘ということであれば、織田の家中の水面に大きな石を投げ入れられるものとは申せましょう」
「平手政秀だ」
「かしこまりました」
ほとんど言葉を発しない、短文の羅列のような主君の問いに直元は平然と答える。
道行くものに油を売り歩く行商をしていた経歴から口が達者と思われがちであるが、斎藤道三という男は普段は貝のように口を閉ざした男であった。
無論、必要な時は弁舌鮮やかにまくしたてることもできる。
しかし、それは油を売るために覚えた芸の一つであって、道三自体はむしろ一文銭の小さな穴からすっとまっすぐ売り手の壺に注いで見せて、一滴たりとも零したことがないのが自慢という並外れた集中力を売りにしていた。
その集中力は得意とする槍を学んだときに身に着けたもので、本来、こちらの技で立身出世を狙うというのが道三の野望であったのだ。
実際、土岐家の家老長井長弘に雇われたのも槍の腕前を買われてのことであった。
もっとも、構えたときに腰を異常なまでに落とし、低い位置からすり上げるように突いてくる道三の槍の術は評価されてはいたが、四六時中下から睨み上げるような眼つきとあわさって、蝮と呼ばれ蔑まれ続ける原因となるという計算違いはあったのだが。
僧侶として育ち、顕密二教に親しんだ教養をみせる豪放磊落な表向きの態度と、馴染んだ家臣や身内にしか見せない抜け目のない策士の二つの側面を持つのが、この道三であった。
直元をはじめ、稲葉良通や安藤守就といった西美濃三人衆は、このような主人の狷介な性格をよく理解していたので今更驚くことはない。
直元は道三のもとから離れると、殿様つきの若い武士に命じた。
「今すぐに尾張の那古野城に使いを出す用意をしろ。相手は、付家老の平手政秀だ」
「はっ」
その武士が急ぎ足でいなくなったあと、この場から去ろうとする直元の前に立ちはだかったものがいた。
加賀染めの小袖を着て、黒く長い髪を垂らした少女であった。
下女には出せない気品と、美濃一国では並ぶものがないと謳われた美貌が少女の素性を物語っている。
「これは濃姫さま。相変わらず美濃の宝のような美しさで」
「帰蝶でよい、直元。あと、他国に比肩無き美濃の姫という言われようはさすがに恥ずかしいぞ」
「いえ、そのようなことは。――すべてまことでございましょう」
「世辞はよい。……ところで、先ほど尾張に使いを出すと申しておったの。なんのためじゃ? 私の勘がここでおまえから聞き出しておけと告げておるから、聞く」
直元は苦笑いをした。
さすがは蝮の娘、勘が鋭い。
なまじ自分の未来がかかっているだけに鋭さに磨きがかかっているようだ。
彼の口から告げるのは越権かも知れないが、もしかしたら最後まで道三の口から直接告げられることはないかもしれない。
謀があったのならば誰にも告げずに根回しをし、いきなり実行に移すのが道三のやり方であるし、身内に対しても妙に口下手なところがある男だ。
だったら、彼の口から話してしまってもたいした問題はあるまい。
「用向きは縁談でございまする」
「そなたが口にしたのが尾張で間違いないとすると……私のお相手は尾張のうつけの若殿ということかしら」
「よくご存じで」
「ふふ、私を嫁がせるに相応しい相手となったらそうはいません。そろそろ、私も嫁に出される頃合いだと覚悟しておりましたし」
「本来ならば、殿から直接伝えられるべきことですが」
「なに、身内に対しての父上の口下手は死ぬまで治らないでしょう。私を嫁がせるとなったら、涙の一つぐらい零してくださるかもしれませんが、親の腹を食い破って産まれる蝮に例えられる男には期待はできません。……ところで、直元。輿入れがあるとしていつ頃になるのかしら」
「相手の返事もありましょうが、十一月あたりになるかと」
「すぐね。では、放っておくと私の腰元は各務野だけということになりそう。――尾張の水に馴染めるといいのだけれど」
それだけ言うと、濃姫こと道三の娘帰蝶は侍女を連れて奥へと向かった。
手っ取り早く父から直に話を聞くつもりなのだろう。
あの道三と会話が弾むはずはないが、父に劣らぬ度胸と頭の回転を持つ娘ならば意図をよりよくくみ取ってみせることだろう。
帰蝶がいなくなると、直元は首をひねった。
「しかしこれから苦労するのは、どうやって織田に姫の輿入れを認めさせるかだ。婚礼の日取りなども決めねばならぬし、さてさて厄介なことよ。―――稲葉や安藤たちにも知恵を絞り出してもらうとするか」
そう呟くと、直元は同僚たちのもとへと歩き出した。
彼と帰蝶との会話に、じっと聞き耳を立てていた影が潜んでいて、彼がいなくなるまで身動き一つしていなかったことなど気が付きもしなかったのである……