イサクァは、十四歳のときにスペイン人に攫われた。
彼はショショーニ族の中でも、グレートベースン砂漠からロッキー山脈を越え、グレートプレーンズ、さらにミシシッピ川周辺へと達した部族の一員であった。
その頃ミシシッピ川の河口付近はかつてない変化が表れていた。
ヨーロッパからの入植者が増え始めていたのだ。
当初こそ、先住民族との間で共存の姿勢を見せていた白人たちであったが、西暦1520年代にはいると、徐々に態度が高圧的になり、緊張の高まりとともに先住民族たちとの小規模な戦闘が勃発しやすくなってきていた。
中でもスペインは1541年、ヌエバ・エスパーニャに総督(副王ともいう)を派遣し、大航海時代のライバルであるポルトガルとの競争に勝つため、植民地を広げていく政策をとり、先住民族との争いを積極的に起こしていた。
スペイン人たちは、まだ友好的だった先住民族を殺害し、奪い、誘拐した女子供は奴隷として売買するという悪行を積み重ね、治安の乱れたヌエバ・エスパーニャは薄汚れた活気に満ちた悪徳の町になり果てていた。
そんなことになっているとは知る由もない少年のイサクァは、不注意に一人で水を汲みに行っていたときに、スペイン人の人買いに力づくで攫われ、八年ほど様々な地域を奴隷として渡り歩いた。
二十二歳の時、かつてテノチティトランと呼ばれていたメキシコ・シティにつれて来られ、そこでスペインの探検家ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスの所有物にまで落ちぶれ果ててしまう。
そのビリャロボスは、総督アントニオ・デ・メンドーサによって東インド諸島への探検隊を指揮するよう任命され、1542年に四隻の船でメキシコを出航した。
目的はスパイスの産地であるモルッカ諸島の探検をポルトガルによって、一歩先んじられていたことから、それを上回る情報を獲得するためである。
西回りよりも東回りで太平洋を航海した方が、さらなる発見があると期待されたこともあった。
ただ、探検隊の人手があまりにも足りな過ぎたため、現地人までも使わざるを得なく、そのため体力のありそうな若い男の奴隷を買い入れることになった。
その一人がイサクァであった。
イサクァ自身はすでに何年も奴隷として過ごしていたため、ある種の諦念と絶望を抱いており、船に乗ることになっても唯々諾々と従うしかなかった。
平原に住まうショショーニ族の彼は泳ぐことができなかったため、逃げ出すのも難しかったということもある。
荒れる航海が予想されるのに、かなづちの奴隷を使うことに意味はあるのかと彼の方が不安になったほどであった。
とはいえ、奴隷の身では主人に逆らうこともできず、イサクァは恐怖と屈辱に満ちた海の旅を味わうことになる……
☆ ☆
『白人どもは、おれのことをトントと呼んだ』
「……トント?」
川べりの巨大な岩の上に胡坐をかき、水練を続ける信長に自分の過去を淡々と語っていたイサクァの声の変化に信長は気が付いた。
これまでの経文を詠むような喋りとは違っていた。
少しだけ沈んだ口調で、
『間抜けという意味だ』
と、自嘲混じりに吐き捨てた。
それを聞いて、信長は頭まで沢の水に浸かった。
十ほど数えてから浮き上がる。
ゆっくりと、そろそろ長居するには冷たくなってきた秋の川から上がっていく。
これで今年の水練は最後にするつもりだった。
水中の方が暖かく感じるほど、尾張の地にも冬の足音が近づいてきていた。
泳ぐのと馬を駆るのが何よりも好きな信長にとって、心の中に穴が開くように寂しくなる季節がやってこようとしている。
寒中水練というものはあるものの、また楽しく気分よく泳げるようになるのは数か月先のことになってしまう。
「おまえは間抜けというには、ちぃとばかり気が利きすぎているのではないか。少なくとも、大浜の城を攻めたときのおまえの指図はたいしたものであったぞ」
濡れた褌を脱ぎ捨て、着替えに持ってきたもう一枚を締め直すと、いつものように袴をはいて着物を着た。
岩の上で干し肉を噛んでいるイサクァを見上げた。
この異人は、いつものように顔に土を塗り付け、白い筋を目の下に引いているので、無表情で泣いているようだ。
丈の短い獣柄の半袴からふぐりがまろび出しているのはまさに野人である。
風のようにどこまでもふわふわと漂っている雲のような風体で、何にも縛られていないように胡坐をかいてどっかりと座り込んでいるのは、ほんの数年前まで奴婢であったものの姿とは思えなかった。
少し思案してから、信長ははいたばかりの袴を脱ぐ。
「こちらの方が楽でいいか」
あの異人の格好がとても気楽で愉快そうに思えてしまったのだ。
『締め付ける紐は苦しいものだぞ、キモサベ』
「ふん、野蛮人め」
だが、脱いでみると意外な解放感だった。
水練のために着物を脱ぐのとは別に肩が軽くなるような心持だった。
(あやつにあてられたという訳ではあるまいに……)
だが、影響を受けていないといったら嘘になるだろう。
あの初陣の夜以来、なにかと理由をつけては、このあたりを根城にしてしまったあの異人のもとにやってくる自分の心がよくわからない信長だった。
もしかしたら、言葉もわからない、知人もいない異国に来て、蛮族として雲のごとく自由に振る舞うこの異人に憧れを抱いているのかもしれない。
高みにいる存在ではなく、隣にいながら肩を並べることもできない、はるか遠い存在として。
『―――おい、キモサベ』
「なんだ」
『そろそろおまえのうちに帰った方がいい。おれの幻がそう告げている』
「……あのときのいくさのようにか」
吉良大浜での初陣のことは今でも昨日のことのように思い出せる。
この異人の与太話は信じるに値するものだと経験則として理解してしまっていた。
『血生臭くはないが、面倒なことが起きるだろう。女子が一人、賊に攫われるのだ。それが夥しい血潮の流れる嚆矢となる」
「おまえの言うことなど聞くものか」
「おれではない。精霊のお告げだ」
「であるか」
信長はイサクァの言葉を無条件に信じたと思われるのが嫌だったので、わざとゆっくりと愛馬のところまで戻った。
あの白馬に比べれば威厳はないが、大浜の城まで乗り継ぎなしでいける名馬だ。
袴をつけていないので太ももの内側がくすぐったかったが、いつもよりも馬の息吹を感じ取れるような気がした。むしろ、しっくりくる。
「はいよぉ!」
岸辺から離れると、隠れて護衛についていた恒興と利家が合流してきた。
二人とも主人からわずかでも離れるのは不安だったが、イサクァと会うのを邪魔すると盛大にへそを曲げられてしまうので仕方なく離れて見守るだけですませていた。
どちらの少年から見ても、イサクァが気味悪いというのもあるが。
「城に戻るぞ」
「―――お珍しい。まだ陽は高いですぞ」
いつもの信長ならば、一度城から出たら薄暗くなるまで城に帰ることはない。
城が嫌いという訳ではないが、じっとしていることが好きではないのだ。
城の外であるのならば、何もない原っぱや木の上で何刻もぼうっとしているということしょっちゅうだというのに。
小姓たちからしたら仰天の行動であった。
背後に顎をしゃくり、
「あやつがさっさと城に帰れというのでな。念のためだ」
これもまた驚きであった。
お目付け役の平手政秀どころか、父親の信秀の小言ですら嫌がる信長があのおかしな異人の言うことには従うのである。
まるで恐ろしい怪物でも背後にいるかのようにおそるおそる振り向く二人を尻目に、信長は城への一本道を進んでいく。