信長と帰蝶の縁談は秘密裏に進められた。
織田家と斎藤家の二つの勢力が結びつくのをよしとしない諸国による妨害工作をおそれてという理由もあったが、なにより両家の抱える問題に身内が邪魔をしに関わってくるという共通点があったのも大きかった。
織田にとっては、嫡子としての信長を排斥しようとする実の兄弟と重臣たちとの権力争いであり、斎藤にとっては、嫡男である義龍が道三を仇敵と思い込み、父親の命を奪おうと虎視眈々と狙っているという確執であった。
特に後者の側は、道三が土岐頼芸から奪い取った妾の三芳野から産まれたのが義龍ということで、嫡子が本当の父親ではないと頑なに信じ切っているという容易くは解決しがたい問題が含まれている。
この縁談が首尾よく決まれば、道三という舅が後ろ盾になる信長がほぼ後継者として認められるに等しく、一方で斎藤側も織田という南からの敵の脅威を減らせることで義龍への警戒を強くできるという大きな利点がうまれる。
そのために、双方共に身内からの妨害の方が強く行われるだろうと懸念されたのであった。
さらに言えば、秘密裏に水面下で進められていたことに加えて、決定の速さも尋常ではなかった。
信長の初陣である吉良大浜のいくさが九月、これを受けて道三が娘の嫁ぎ先を織田家と定めたのが十月、帰蝶が稲葉山城から輿入れしたのが十一月というので、どれほど急遽進められた縁談であったのかが如実にわかろうというものである。
なんと、氏家直元が平手政秀を呼び寄せて、道三自ら縁談を切り出してから一月も経っていなかったぐらいである。
この時、身内に対しては岩のように寡黙な道三が笑みを浮かべながら油売りらしい舌の滑り具合を見せると、招かれた側の政秀は簡単に首を縦に振った。
道三の弁舌に騙されたというより、斎藤家との繋がりをもつことによって、信長の対外的な地位を安定させたいという理由があったからである。
どちらもいつ背中を刺しに来るかわからない物騒な身内よりも、利害が一致する賢い敵の方が計算がしやすいという腹づもりであったろう。
それに、このときの信長はすでに元服を迎え、十五歳になり、正室を迎えても早すぎる年頃ではない。むしろ遅いぐらいだ。できるかぎり円滑に進める必要もあり、この縁談の段取りは恐ろしいほどに早く進んだのであった。
もともと、信秀からの事前の同意は得ていたこともあり(信秀もほとんど政秀と同意見だった。この縁談こそ信長の生命線になると気づいていたのだ)、輿入れの日取りの決定から、誰が付き添うのか、那古野城では何人の腰元を付けるのか、嫁入り道具としてなにを持参するのか、織田家側から贈られる金銀はどれほどか、事細かなことまで夜を徹してその日のうちに話し合われた。
政秀が我に返ったときには、ほとんどすべての段取りが決まっていたといっても過言ではなかった。
こうして、たった二日の滞在で政秀は那古野城に戻り、信秀に報告後はこっそり帰蝶の受け入れの準備に取り掛かった。
そして、十一月のある日。
政秀は、珍しく陽の高いうちに城に戻ってきた信長に、城の奥でこの縁談について初めて口を開いたのである。
☆ ☆
「おれに嫁がくるのか」
政秀の説明に上の空で答えた。
この時代の武士の子である。
武家の子が政略のために犬猫か品物のように交換されるのは当然のこととして、信長も受け入れている。
ゆえに縁談が決まったということを聞いても顔色一つ変えることはなかったが、斎藤道三のひとり娘が今日のうちに美濃からやってくるというところで頭にかちりと何かがはまった。
「―――今日だって?」
政秀に確認をとる。
上の空で別ごとを考えつつ聞いていたのでもしかしたら聞き間違いの可能性がなくもない。
しかし、政秀は何の疑問も持たずに答えた。
「御意。すでに朝方には美濃の稲葉山城を出られているはず。昼には尾張と美濃の境を越えていることでしょう。その頃には、大殿様がこちらにみえられているはずです」
いきなり信長は立ち上がった。
頭の中を先ほどの頭のおかしい異人の忠告がぶんぶんと音を立てて回っている。
「爺、おれはちぃとばかり所用がある。もし、おれの妻となる女が留守中にやってきたら、丁重に迎えてやれ。父上のお相手も、おまえに任す」
「な、なんですと!」
「急ぎなのだ。口を利くのも惜しい」
廊下へと走るように出る。
そのまま草履をはいて外へと出ようとするが、すぐに戻ってきて大声で怒鳴った。
「勝三郎と又左衞門は婚礼の支度の手伝いをさせろ。決しておれを探してはならぬ。やるべきことをさせるのだ」
と、勝手な命令を出して飛び去って行った。
政秀が反応することもできない素早さだった。
「な、若、若様!」
叫んでも当然のことながら返事はこない。
「この大切な縁談の日に、何をなさるおつもりなのだ!」
政秀は金切り声を立てて地団太を踏んだ。
そのまま信長がたった一人で馬を駆って向かったのは、先ほどの沢であった。
まだ一刻も経っていない。
あのぐうたらな異人は、ものがなくなれば交換といって、百姓や旅人から盗みを働く以外はたいてい棲み処にしている野原で昼寝をしたり、何かの飾りを作っているか、この沢で釣りをしているはずであった。
まだ二月の付き合いしかないが、おおよその行動の予測は付けられるようになっていた。
おそらく、今日は沢にまだ残っているはずだ。
だが、大岩の上に姿はなかった。
裏に回ってみても、そこで釣竿をたてて引きがくるまで寝転んでいる風でもない。
ならばと竹林に足を向けてみたが、まったく見当たらなかった。
(このようなときに当てにならんとは。―――なるほど、南蛮人に間抜けと言われるわけだ)
八つ当たりのように罵倒が浮かぶ。
やはり野原の粗末な小屋に戻っているのか、と振り返ったとき、
ひひひん
と、決して忘れられない嘶きが耳に届いてきた。
そこにはあの時の白馬がいた。
最初にイサクァを目撃した時以来であった。
鬣が銀色に光る、神々しい純白の馬。
それが信長を見つめている。
十分な筋肉がついているが、鈍重さを感じさせない第一印象であったが、よくよく見ると痩躯というぐらいに細い。
だが、足首のしまり方といい毛並みの艶といい、溢れ出る気品まで見事としか讃えようのないぐらい素晴らしい馬であった。
鞍はともかくとして、銜も手綱もついていないことから、野生の馬かもしくは主人を亡くして彷徨っているかのどちらかであろう。もっとも、これほど極上の個体が数か月のあいだ誰にも捕らえられずにいるということ自体が信じられなかった。
武士ならば千の兵を率いてでも手に入れたがるはずである。
それほどの馬が不思議に澄んだ双眸で信長を見つめていた。
静かに白馬が近づいてくる。
人と馬、二対の目と目が合う。
白馬が白い歯並びを見せた。
にっこりと笑っているようであった。
『―――そのウマは、高貴な銀の精霊だ』
いつのまにか、竹やぶの奥からイサクァがやってきていた。
「なんだと?」
『そいつはおまえを乗り手に選んだのだ、〈歩む死〉よ』
キモサベといい、〈歩む死〉といい、他人を妙な名前で呼ぶ奴だ、と思った。
イサクァは白馬のまえに跪き、祈りのような歌のような唸り声を発した。
馬はそれが終わると、信長に近づいてきて舌で顔を舐めてくる。
余程人に馴れた馬でないと、こんなに馴れ馴れしい真似はしてこない。馬術にたけた信長でさえも見た経験のない懐き方だ。
「どういうことなんだ」
『銀の精霊は、おまえとともに〈悪霊〉を討てとおれにおっしゃっている。一度死んで生き返ったおまえだからこそ、だとも』
「何をいっているかさっぱりわからん」
『ウマの言葉だ。おれがおまえにわざわざ教えてやっているのだ』
「―――おまえは狂人だ」
『おまえは死人だ』
白馬がいなないた。
乗れとでも言うかのように。
仕方なく跨った。
鞍はないが股座に痛みはなかった。
こんな乗り心地は初めてだ。
『これで、戦いになるな』
「なぜ、いくさになると思う。おまえはさっきそれをおれに告げたな。例の幻とやらでは何が視えたのだ」
『どこぞの高貴な女が拐かされる幻だ。間違いなく〈悪霊〉の仕業だろう。おまえはおれとともにそれを阻止しなければならぬ』
すると、馬がイサクァに咬みつこうとした。
『わかった。あなたもだ、銀の精霊よ』
イサクァと白馬のやりとりは気心の知れた友人のもののようだった。
異人と馬。信長からはどちらも遠い存在であるからこそ、あちらは近い関係になるのだろうか。
狐に化かされたような気分だったが、信長は何故か自分のすべきことが分かってきているような気がしていた。
『銀の精霊と狩人のおれが揃ったのは偶然ではない。この地で〈悪霊〉が動き出して悪事を働いているのは精霊からしても明らかということの証左だ。さあ、いくぞ、キモサベ。その女を救わなければ多くの血が流れ、この土地は地獄の底と化すことだろう。止められるのは間違いなく我らしかいない』
イサクァの言葉を受け、白馬が勝手に走り出すと、街道を美濃へと昇っていく。
しばらくすると、乗り捨てたままにしておいた信長の愛馬に跨ってイサクァがやってきた。
馬盗人の前歴のあるものに愛馬を貸すのは、そのまま持っていかれそうな気がして心配の種でしかなかったが、信長はそれ以上にこの白馬の抜群の乗り心地に夢中になっていた。
まさに風に乗っているようだった。
これほどの名馬は今日の将軍家でもきっと持ってはいまい。
信長は思わず高揚感のままに叫んでしまった。
「はいよぉ! 駆けていけ!」