当初、この縁談を仕切っている氏家直元は、帰蝶を斎藤家の娘―――ひいては美濃の国の姫である濃姫に相応しい格式高い嫁入りに仕立てる腹積もりであった。
花嫁を運ぶ輿だけでなく、尾張へ供奉する行列三百人を堵列させ、荷物だけで五十荷を運ばせる。
婚礼奉行が礼装で先頭を卒然と進み、道三の代理として自分が略装のまま金蒔絵の鞍をおいた馬で続き、自身の部下を率いてゆるゆると行く。嫁ぐ娘が父母と別れる心情を表すため、行列を十歩進めて止まり、また二十歩進んでは止まりをくりかえす様式を国境いまで時間をかける。父母は城門の脇から娘を見送り、見えなくなったところで門の右側で門火を焚く。
これが当時の輿入れの作法だった。
しかし、道三はこれを嫌がった。
「格式は無用。帰蝶のみを先に尾張に送れ」
帰蝶に従う各務野と三人の侍女、そして直元の部下十人が護衛につくだけの簡素なものとなった。
尾張の那古野城までの十里(四十キロメートル)の道のりを若い女人を率いていくには不安な人数であった。
(確かに、この縁談は秘密裏に進めねばならぬものだ。ここで、輿入れのための足の遅い行列でいけば、鷺山城の義龍さまが手勢を率いて邪魔をしてくるやもしれぬ。織田方も三郎信長はうつけものとして四面楚歌にも等しいと聞く。敵対者に手勢でも出されて妨害されては目も当てられん。ならば、山城さまの言う通りに目立たぬように選ばれた少数でゆくのが正しいか)
念のため、直元自身も木曽川の国境いまでは見送ることとし、道三の言う通りに帰蝶はわずかな護衛だけを伴って出発した。
とても斎藤家の一人娘の輿入れとは思えぬ静かで寂しい別れであった。
「……お父様らしい」
帰蝶はぽつりと呟いた。
蝮と畏怖される父親だった。外においては弁舌鮮やかで立て板に水のごとく喋りまくる癖に、身内に対してはほとんど口も利かない。言葉を発しても二言三言という、何を考えているかわからない男であった。
それでも、付き合いの長いもの、例えば母や美濃三人衆といった人々は、内心と考えを察してくれるので不自由はしていない様子だった。
帰蝶も最近ようやく父の腹のうちがわかるようになってきている気がした。
道三は普段から腹の中ではよく喋っているのだ。ただし、それは例え裏切っても裏切られても仕方のない相手に対してではなく、身内に対しては嘘をつかないよう、騙さないように努めているからおいそれと口を開けないだけのことである。
つまりは身内に対しては恐ろしいほど誠実なのだ。
油売りからなり上がった僧侶出身の男の、長く付き合ったものでなければ理解できない思考だといえよう。
ただ、逆に言えば身内であっても長く近くにいないとわからないことばかりということでもある。
(兄上ももっとお城にいればよかったのに)
長男義龍が父を蛇蝎のごとく嫌っているのは、腹を割って話さない道三のせいだろうが、それとは別に親をもっと深く理解しようとしない兄にも責任はあると思う。
義龍は表面上だけは交渉に挑むときの父に似て雄弁だ。
だが、それは考えなしに喋るのが得意なだけ。深慮遠謀を秘めた道三のものと比べれば幼稚で他愛ないものでしかない。
だからこそ、道三は自らの長男ではなくその孫を可愛がり、他国の危険な若者に愛娘を嫁がせようとしているのだろう。
このままでは間違いなく斎藤家が滅ぶと確信しているのだ。
(―――三郎信長というお方は果たしてお父様を理解できるのでしょうか)
帰蝶だけでなく斎藤家の先々は、もしかしたら自分の嫁ぎ先の若君の肩ににかかっているのかもしれない。
そんな予感がしていた。
一刻もしたころ、木曽川の川向うに織田家からの迎えが待っていた。
尾張守護職の旗を掲げた武士たちだった。
平手政秀のような知った顔はいない。
嫁ぎに来た美濃の姫君に対する迎えにしては人数が少ない気がしたが、斎藤家側と同様の事情があるのだろうと察するしかなかった。
三郎信長はうつけものとして家中から嫌われているという。
あちらもこっそりと動かねばならぬ理由があると納得するしかなかった。
「それでは、姫。―――平太郎、あとは頼んだぞ」
「はっ」
美濃山県郡福富の住人福富平太郎貞家がうなずく。
これから先、織田家という敵陣内において帰蝶を守るために尽くす任務を帯びているのが彼であった。
いざというときに、命がけで帰蝶の脱出の手助けをしないといけない重要な役目も担っている。
その福富貞家と五人の美濃衆が、用意された舟をこいで対岸まで渡っていく。
これでよほどの事態が起きなければ帰蝶は国に帰ることができなくなった。
他国の大名に嫁いだ娘とは、生涯二度と相みることができなくなるかもしれないのが戦国の世というものだ。
父母であっても、実の子のように主君の娘を見守ってきた家臣であっても。
馬首をひるがえし、木曽川から離れていく直元の頭に一つだけ疑問がよぎった。
(はて、いつ、織田信秀は尾張守護の旗を掲げることができる地位についたのだ……?)
と。
そして、その疑問は正確に的を射ていた。
☆ ☆
「あんたが、濃姫だな」
迎えにきた織田家の家臣らしい風体の若い武士が横柄に言い放った。
鬼のような吊り上がった眼をした武辺ものだった。背も高く、体格も良いうえ、この人数を率いる頭のようであった。赤錆だらけ切っ先をつけた切れ味があるのかどうかもわからない不気味な槍を抱えている。
福富貞家はその無礼な態度に頭に血が上りかけた。
主人の姫に対して、嫁ぎ先とはいえ他国の陪臣が無礼な口を利くだと。
思わず刀の柄に手がかかる。
帰蝶の父道三に心酔しているからこそ、輿入れする娘の護衛にまで選ばれた男だ。忠義の心は誰よりも篤い。
「動くな、阿保め。これが見えねえのか」
すると、男の指示に従って、十名ばかりの手下たちが槍と弓を構えて美濃のものたちに向けてきた。
明らかなまでの示威行為であった。
とても婚姻を結ぼうとする家の家臣がとっていい態度ではない。
織田家の裏切りかとも考えたが、織田信秀にとってこの婚姻をぶち壊す理由はどこにもない。
だが、それ以外の婚姻をぶち壊す理由があるものはいる。
それは織田家の中に当然いる。
彼らにとって、同じ家中の旗印を偽装することなどさして難しいことではないのだから。
貞家は眼前の男たちが信秀や信長の配下ではないと断定した。
罠にはめられたというほかはない。
「おい、護衛役。動くなよ。動けば、てめえらともども姫さんも殺す。お付きの女もなにもかもまとめて殺す」
「……平太郎」
帰蝶の凛とした言葉に従い、貞家は刀の柄から手を放し、帯から鞘ごと抜いて地面に置いた。
全面的な恭順の証だった。
無抵抗に徹しなければ帰蝶を危険に晒すことになる。それだけは自分が死んでも避けなければならない。
自らの盾役がなくなっても、帰蝶は毅然とした態度を崩さなかった。
狼藉者の頭と思われるものが感心した眼で見やった。
「よし、美濃衆は縛り上げろ。女どももだ」
「―――この帰蝶の命が望みですか」
「さっさと殺してやってもいいんだぜ。そっちの方がことは早くあがる。もっとも、今のところはあんたさえ捕まえられればそれで足りるのさ」
「なるほど、おまえたちは此度の婚姻そのものが狙いのようですね。では、連れていきなさい。代わりに平太郎と各務野たちの命は拾うてやってくれませんか」
「わかったよ。命乞いする口は一つ残ればいいんだがな」
帰蝶の交渉は成功し、貞家たちは縛られて猿轡を噛ませられる程度で助かった。
それ以上の会話は交わされず、頭領らしき男に腰を抱えられて、帰蝶は曳かれてきた馬車の荷台に乗せられて連れ去られていく……