輿入れを迎えに行くはずの家臣たちがいまだ出ていないことに信長は気づいていた。
まさか、連絡の不備があったということか。
だが、それよりも考えられる最悪の事態というと……
「どちらかの家に段取りを狂わせたやつがいる」
自分自身の婚姻でありながら、今日がその日だということを知らされてなかったこともあり、政秀たちが相当秘密裏にことを運んでいたことは想像がつく。
特に、一おとなの林秀貞が信長よりも土田御前と信勝寄りについているのがはっきりとしている以上、婚姻ぶち壊しの暴挙に出てもおかしくはない。
そうなると、斎藤家との関係は修復不可能なぐらいに悪化し、事態を招いた信長廃嫡の機運はさらに高まるだろうことは疑いがないところだ。
そうなったら信秀もさすがに彼を庇いきれないだろう。
ただし、そうなったらそうなったで信長は呑み込んでしまったはずだ。
身内に殺されるのは不本意だが、この窮屈な世界、周囲が敵かそれに準じたものだらけの反吐が出るような環境で生き続けねばならないというのならば、ここできっぱりと人生を諦めてもよかったのである。
だが、イサクァを引き連れてまで美濃の姫のもとへ向かうのは決して譲れない一つの理由のためである。
(―――美濃と尾張の間に産まれたかもしれない、つかの間の偃武の刻が消えてしまう。それは嫌だ)
この婚姻がなれば、天文十一年(1542年)、美濃の守護の土岐頼芸が尾張へ追放されてから続いている、斎藤道三との血みどろのいくさがほんの一時であっても終わるかもしれないのだ。
ほんのわずかな時間かも知れないが、二つの国の家臣も民も安心して日々の暮らしを送れるかもしれない。
いくさに明け暮れる世界のくだらなさを嘆いていた信長にとってそれは素晴らしいことであった。
その可能性に思い至ったからこそ、信長は供の一人もつけずに飛び出していったのである。
異人と白馬までが一緒にくるとはさすがの彼も予想していなかったが。
『キモサベ、どこに向かっている?』
「木曽川の渡しだ。蝮の娘ならば、輿ごと舟でこちらに渡ってくるはずだ」
『そういうものか』
最初はイサクァが信長の馬術についてこられるとは考えてもいなかった。
もともと馬盗人と呼ばれていたが、その馬がどうなったのかもわからず、乗っている場面に出くわしたこともなかったから、はっきり知らなかったのである。
いつも通りの前屈姿勢が、騎乗するとさまになり、かなりの腕達者に見える。変わった騎乗の仕方だったが不安定さはまったく感じられない。
少なくとも信長についてこられるだけでもたいした腕である。
この銀色の鬣をもつ白馬は矢のように駆けるため、並大抵の乗り手ではついてこられないだろう速さをだすからだった。
手綱も鞍もないのにかかわらず、まるで頭の中を読まれているかのように自在に信長を運んでいく。
(なんて馬だ)
思わず舌を巻くほどの優馬であった。
しばらく進んだところで、川が見渡せる拓けた場所に出た。
艀があるが、舟は一艘も見当たらない。
対岸の美濃と行き来するための場所だが、尾張の織田家と斎藤家のとの間に緊張が高まって以来、船頭たちが持ち舟をもって逃げだしてしまい、今は常時舟が繋がれていないのだ。
もし、斎藤家の姫との婚姻が成立すれば、おそらく渡りの船頭たちがおそるおそるだが戻ってくることだろう。
そうすれば商人の行き来も再開する。死んでいた流通が生き返るのだ。
これも信長の行動にかかっているといっていい。
ひひん、と白馬が嘶いた。
何かを見つけたようだった。
そちら側に目を凝らすと、土手に繁った丈の高い草の中に人が倒れていた。それもかなりの人数である。
『風に血の匂いはない』
イサクァが鼻をクンクンと鳴らした。
要するに、死んではいないということである。
この異人の野生の獣のごとき振る舞いにもだいぶ慣れはじめていた。
「いくぞ!」
『おお!』
二人が警戒しつつ馬で近寄っていくと、十人ほどの男女が縛られて打ち捨てられていた。
武士と良家の侍女らしい女どもが半分ほどの割合だった。
口内に詰め物がされているうえから、厳重に猿轡を噛まされているので唸り声を発するので精いっぱいという有様だった。物取りの仕業や、いくさの後の狼藉による服装の乱れのようなものはない。
足元に転がっていた櫃のようなものに斎藤家の家紋がついていたので素性は容易に判明した。
ただし、問題なのはどうしてここに斎藤家のものたちが縛られているのか。此度の婚姻と関係があるのか、あるとしたら件の姫はどこかに連れされられたのか。周囲を睥睨してみてもそれらしき女子の影は見当たらない。
「―――少し待て」
下馬して、一番地位の高そうな武士の猿轡を外す。
「よし話せ」
「……我が主の姫が! 帰蝶さまが織田を騙った賊に攫われてしまいました! なんと惨めな―――!」
福富貞家は血涙を流さんばかりに悔しそうに呻いた。
実際、彼の目からは武士らしかぬ悔し涙が溢れだしている。
油断した挙句、大切な姫を拉致されたのだ。武士としては雪ぎ切れない恥さらしだ。この場で切腹したとしてもこの恥は決して雪げない。
同じ武士として気持ちはわかるが、信長にとってはそれどころではない。
「わかると思うが、おれは織田家のものだ。美濃の姫は誰に攫われたのだ?」
「わかりませぬ! 尾張守護の旗を掲げていたため、そちらのご家中の誰かと油断してしまいましてござりまする!」
「……守護の旗か」
今のところ尾張守護の地位はまだ斯波氏のものだ。
守護に相応しい地位や権威を十分に手に入れている信秀も、あえてこれまで僭称をしたことはない。
もともと信秀は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(いわゆる清洲織田氏)に仕える庶流であり、清洲三奉行の一家でしかなかった。
ただし、斯波氏に仕えていたことから尾張守護の旗そのものはいくさのときにも掲げることはある。
城の土蔵にでも入っているそれをどこからか引っ張り出してきて使えばいいだけのことだ。
わかりやすい騙し討ちだ。
しかし、美濃の姫の輿入れのための人数としてはあまりにも少なすぎる。
秘密裏にことを進めるにしても、これはさすがに異常すぎた。
護衛がたったの五人とは……
信長はこの濃姫誘拐に裏があることを敏感に察した。
誰かが仔細を賊に流し手引きしただけでなく、縁談を進めるに当たって謀をたくまれた可能性が高い。
織田家でこの縁談を担当したのはあの平手政秀であり、自分のお目付け役が石で叩いても割れない堅物であることは百も承知している。
(では、美濃衆の方に裏切り者がいるな)
となると、姫を攫った理由もわからなくはない。
もしも完全に婚姻をぶち壊すつもりならば、さっさとこの場で斬り殺してしまえばいいだけの話だ。お付きのものどもも同様に皆殺しで足りる。殺してしまえば簡単な状況で、あえて命を奪わないということには相応の理屈が必要なのである。
『女が攫われたのならば追えばいい。容易いことだ』
「だが、どうやって追うんだ? 影も形も、どこに行ったのかすらもわからないんだぞ」
『足跡を辿ればいい。たやすいことだ。そこに西に向かっているものがある』
イサクァが地面を指さす。
馬の蹄跡がついていた。
ここで初めてイサクァのことに気づいたらしい貞家が目を丸くする。
異人と邂逅したことないものがほとんどの時代だ。ほとんど怪異や妖魅を目にしたのと変わらない反応を示す。
もっとも、そんな貞家の変化になど気を向けている余裕はなかった。
「おまえなら蹄の跡だけで追えるのか」
『そんな面倒な真似しない』
「おい……」
『ウマに聞け。こいつには〈悪霊〉が関わっている。〈悪霊〉の後を追うのは精霊のウマにやらせればいい』
その言葉に応えるように、白馬は急に西へ走り出した。
「お、おい」
慌てても手綱がないことから信長には制御できない。
「……そ、そなたは?」
貞家の問いかけに、信長は振り返らずに答えた。
「よいか、尾張のためにもその姫は助ける。絶対にだ。姫はおれたちに任せて、おまえたちは那古野城へ急げ」
そして、走り出した。
銀色の鬣を持つ白馬には、なぜか行く先が完全にわかっているようである。