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第16話 銀浪


 しばらくして、イサクァは愛用の手斧を二つ両手に握ると、宣言通りに右側から回り込むように小屋へと近づいていった。

 同行者がいってしまった以上、信長も動かなければならない。

 だが、まだ一度も人を斬ったことのない十五歳の少年が五人の武士相手に何ができるのか難しいところだった。

 勢いで追いかけてきてしまったが、追跡と戦いでは度胸の質がまったくの別物だ。

 しかも、頼りになるはずの異人はとっとと先に行ってしまった。

 沢近くでの追いかけっこのときに見せつけられた、あの手斧を投げる技と体裁きは一流の武芸者に匹敵するものであった。

 とはいえ、今更那古野城に助っ人を呼びに戻るのはできない。

 ここは美濃の国だ。織田家の家臣が武装して連れ立っていたら目立って仕方ないうえ、関係のない厄介ごとに巻き込まれるおそれがある。それだったら、最初から恒興や勝三郎や又左衛門を連れてきていたらよかったのだ。


(おれ、一人か……)


 先行したイサクァはもうあえて数に入れない。

 信長は独りで来たのだ。

 ならばいくさに及ぶのも独りでなければならないはずだ。

 頭の奥にいつか聞いたイサクァの言葉が蘇る。


(我々の言葉で〈歩む死〉という。一度死に、あの世から帰還したもののことだ。〈歩む死〉は戦いでは決して死なない)


 確かに、死を覚悟しながら臨んだ吉良大浜の戦いでは、かすかな矢疵すら負わずに済んだ。

 初陣の少年が将となって、死も恐れずに遮二無二に突き進んでいき、敵の中央を突破しておきながらまったくの無傷というのは、運の良さだけではとうてい説明しきれない。

 信長自身、死んで当たり前の無茶苦茶さだと思っていたのに不思議に命を拾い、生きて帰ったのだから尋常ではない。

 なにより、あれ以来、那古野城の兵たちの多くが信長に傾倒してくるようになった。

 噂通りのうつけかもしれないが、軍神に守られたかのような勇猛さを目の当たりにして戦うものに惹かれないはずがないのだ。

 その変化を信長も感じていた。

 とりわけ若いものたちは、恒興や利家たち小姓とばかりつるんで距離を取っていた信長のもとにこぞってはせ参じるようになっていた。

 うちの若き殿様はもしかして凄い大将なのでは、という期待を寄せてきたのだ。


(面倒だな)


 そう思っても、無碍に扱うことはできない。

 幼いころに母親に捨てられ、彼女に悪い評判をたてられて、血の繋がった兄弟たちに劣等感をもって生きてきた少年にとって、無条件に慕ってくれるものたちの存在はありがたいものであった。

 後年、彼はこの頃から傍にいるものたちを、例外こそあったが、ほぼ大事に扱い続けた。

 十五の少年が初めて手に入れた宝物は、家臣―――というよりも子分たちであったのかもしれない。


「―――信じてみるか」


 信長は白馬に跨った。

 ここでこの場に相応しからぬ単純な疑問を抱いた。


「はて、おまえのことはなんという名前で呼ぶべきか」


 馬術において、馬の名前を知っている必要はない。

 ただ、人馬がいくさにともに出る戦友のような関係になるためには、お互いのことを知らなければならない。馬の側は一回乗せればだいたい乗り手のことを見極められるというが、人の側はもう少し深く歩み寄らなければならない。

 そして、その場合に最も効果的なのは名前を呼ぶ、もしくはつけるという手段であった。

 とはいえ、このあたりではお目にかかったことのない真っ白な見事すぎる白馬のため、すぐには思いつかなかった。

 この白馬はイサクァの言に従えば、「銀色の精霊」という異名であるらしいから、それを使おうかとも考えたが、少し首をひねり、一番星が輝き始めた空を見上げると、あの吉良大浜の大風の下から眺めた天の川を思い出した。

 泣きたくなるぐらいに美しい夜空だった。


「――銀浪ぎんろうにしよう。あの時の天を思い出すように。いいか、おまえはこれからは銀浪だ」


信長によって銀浪と名付けられた白馬は、名前の由来の一つとなった銀色の鬣をなびかせ、


(まあ、我慢してやるよ)


 と笑っているように見えた。


 ☆ ☆


 イサクァは林の中を大回りして小屋の背後から忍び寄るつもりだった。

〈悪霊〉の不意を打つには、やはり想定していないだろう奇襲が一番であるからだ。

 正直なところ、相棒役に連れてきた〈歩む死〉の少年は戦力としては心許なかった。

 戦いの場において、人を殺したことのない戦士などに頼ることはできない。

 だったら、すべて彼が片付けてしまうのが手っ取り早い。

 身体の芯からじわじわと広がっていく高揚感があった。


(〈悪霊〉の気配だ)


 かつて故郷で教え込まれ、これまで一度たりとも忘れたことのない邪悪な気配。

 部族の中で〈悪霊〉狩りとして育てられてきたのに、間抜けなことから白人に捕まって奴隷になり、こんな遠いところまでやってきてしまっても、生まれと育ちは捨てられないのだ。


『……死ぬにはもってこいの日』


 別の部族の男が言っていた言葉を口にしてみた。意外としっくりきた。ショショーニの男にも当てはまる。荒野に生きる男に相応しい。

 腰に下げていた手斧を二つ、両手で持つ。

 濃い茂みの中を忍び歩きすれば一切の音が出ない。

 完全に後ろに回り切ったとき、イサクァは恐怖を感じた。

 すっと後ろに下がる。

 彼の前に立ちふさがるように一人の武士が姿を現したのだ。

 網代笠を深めにかぶり、顔を隠している。

 手にはすでに煌めく白刃が握りしめられていた。

 見張り、というよりもイサクァの接近に気づいていたかのようにじっとまっすぐに凝視してきた。

 小屋の中の賊の仲間だとしたら、追跡者の接近を大声で告げないところが妙だった。

 何故か動こうとしない。どう見てもひとりで隠れて対処しようとしているようにしか思えなかった。

 それはイサクァも同様である。


(―――でたか、〈悪霊〉)


 嗅覚が邪悪の臭いを嗅ぎ取っていた。

 追跡の最中にわずかに漂っていた残り香と一致する。

 こいつが彼が追っていた本物の〈悪霊〉であった。

 故郷でも嗅いだことのある、ある意味では懐かしい臭い。

 イサクァはようやく自分のなすべきことに辿り着いた気がした。

 むしろ、〈歩む死〉の少年に語ってやったときには彼自身やや信じきれてなかったのかもしれない。


(しかも、やはり強い)


〈悪霊〉は人知の及ばぬものである。

 だからこそ、〈歩む死〉や精霊のような理から外れた存在が対応しなければならない。

 イサクァ自身は理から外れている訳ではないが、正真正銘の〈悪霊〉狩りだ。

 退治の仕方は頭に叩き込んであるし、腕に覚えもある。


「―――奇妙な〈気〉を感じた。出てくるがいい」


 錆びた鉄を思わす低い声であった。

 重い何かを背負っている者しかだせない声色だ。

 地肌にまるで木目のような濃い文様が出た板目肌、刃文は波のようにうねる直足のたれが入った身幅が広く、戦闘を重視した刀を手にしている。

 イサクァには日本刀に関する知識はないが、武士が手にしているだけでとてつもなく危険な凶器だと見抜けた。

 距離をなかなか詰めてこない。

 なのに、仲間を呼ぼうともしない。

 倒さねばならぬ相手ではあるが、そう簡単には殺らせてはもらえぬ。

 イサクァは初めてこの日ノ本の国の手強い武士というものに出会ってしまったようだった。

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