信長は、銀浪を小屋から五間の位置まで大げさに動かした。
たった一騎とはいえ、見事なまでに美しい白馬がこれ見よがしに姿を現わせば無視できるはずもないからだ。
内部から見張りをしていた賊たちも気がついたのか、扉を開けて飛び出してくる。
先頭に立つのは赤錆だらけの刃をもった槍の武士だった。
いくさ場にでれば十分に映えるであろう巨漢であった。
「――何奴!?」
赤錆の槍の武士は賊の首魁らしく、胴間声で誰何した。
それに対し、信長も腹の底から凄まじい声をあげる。
執拗なまでの水練で鍛えた肺活量を活かした雄叫びであった。五人の賊どもが揃って足を止める。少年らしからぬ信長の凄絶さの顕れであった。
雄叫びとともに、見事な白馬がまっしぐらに突き進めた。
賊どもは白羽の矢を連想したであろう。
大地を叩く力強いまでの馬蹄の音が轟き響く。
騎馬を相手にする徒歩の兵士は、本能的なまでの恐怖に襲われるものである。武器を構えるだけで他には何もできなかった。
五間の距離は無に等しく、軽々と跳躍した銀浪の強烈無比な前肢蹴りが二人の賊の胸に激突し、背後の小屋の壁にまで吹き飛ばされた。
首魁らしき巨漢のみが横から赤錆の槍を閃かせたが、これは信長の刀が上から弾き返す。
銀浪の突撃に浮足立っていたのか、強い一撃とまではいかないことから、かなり容易いことだった。
しかし、珍しい赤く錆ついた刃は強く印象付けられた。
(わざと錆びつかせて、錆び毒を回らせるように工夫した刃の穂先とは…… ただの武士ではないな。けったいな奴め)
銀浪はそのまま入り口の筵を破って小屋の内部に躍り込む。
小屋内には賊は一人も残っておらず、輿入れ用の高価な着物の少女が隅に座り込んでいた。
暴力を振るわれたり縛られるなどの虐待は受けていないようだったが、涙の痕が頬にわずかに残っている。例え乱暴はされていなくとも、強引に誘拐されたのだからずっと心細かったのだろう。
信長は馬上からまっすぐに手を伸ばした。
「急いで乗れ、美濃の姫よ!」
「そなたは誰ぞ!?」
少女――帰蝶は気丈にも問いかけた。
突然監禁場所に飛び込んできたこの白馬に乗った少年武士が、彼女を救いに来てくれたということはわかる。
だが、誰ともわからぬものに身をゆだねる訳にはいかない。
自身は美濃の国の支配者となった強き齊藤道三の娘であり、父と民のために尾張の織田家に嫁ぐ身なのだから。
少女の哀れな心情を察して、安心させるためにあえて名乗りを上げることにした。
まだ敵地といっていい美濃でそんな真似をすることに凄まじい危険があることは承知の上である。
「聞けい! 我は尾張の守護代織田信秀が子、三郎信長なり! 我が手をとれ、妻となる女よ!」
帰蝶は愕然とした。
まさか、婿となるもの自ら敵に攫われた妻を救いに来たというのか?
そんなことがありうるのか?
理性は甚だしく疑問を呈したが、帰蝶の心は少年のまっすぐな双眸を見て瞬時に納得した。心が素直に受け入れたのだ。真なる赤心は万の証拠を突きつけられるよりも通じることがある。この瞬間こそがまさにそれであった。
「はい、我が殿」
帰蝶が躊躇わず信長の手を掴むと、意外な膂力で一気に馬上に引き上げられ、胸に抱え込まれたら。乱暴に押し付けられた肌に少年の熱が伝わってくる。頬が赤く染まった。父以外の男の熱が伝わってきたのは産まれて初めてのことであった。
「それでは、いくぞ! はいやあ、銀浪!」
信長の指示とともに、なんと白馬は小屋の側面の壁を突き破って外へと脱出した。
隊列を組み入り口で待ち構えていた賊どもがあっけにとられるほどの無茶苦茶であった。
随分と古びていたとはいえ、小屋の壁を破壊して穴をあけて抜け出すという非常識な振る舞いに驚いている賊に、信長の哄笑が叩きつけられた。
「聞いておったか、恥知らずな賊ども! おれは那古野城の三郎信長よ! 我が妻は返してもらったぞ! もしおまえたちにその気があるのならば、今度は我らの婚姻の儀の場にでもやってくるがいい! 酒の一杯ぐらい振る舞ってやろうぞ!」
そのまま、まっしぐらにやってきた方向へと帰っていく。
帰蝶にとってなんとも胸をすくような解放劇であった。
まだ少年の信長によって見事にしてやられたに等しい賊どもは、激しく地団太を踏んで悔しがった。
「くそがあ!」
「織田の跡継ぎだと! なぜ、こんなところに!
「追うぞ!」
だが、賊どもの馬はすべて手綱を切られて逃散していた。
用意周到なイサクァの仕業であった。
逃げた馬をかき集めている間に信長の白馬との距離は開き続けるに違いない。少しでも見失えば追跡などは不可能である。要するに、完全に逃げられてしまったという訳であった。
目的を成し遂げられずに終わった賊の中でも赤錆の槍の男は、特に狂わんばかりに長い間叫び続けた……
◇◆◇
帰蝶は自分を腕の中に抱きしめている、見たこともないほどに美しい馬に乗った少年の顔をそっと見上げた。
世間では、うつけと呼ばれているらしい一つ年上の少年。
さっきは思わず「我が殿」と呼んでしまったが、それでもかまわないと思った。
道三からの指示――「指図があったら刺せ」と手ずから渡された一振りの短刀のことを思い出したが、もうそんなもののことは忘れそうになっていた。
こんな途方もない少年を良人に迎えられるなど、どのような女にもないことであろうことだから。
(……攫われた女を、たった一人で助けに来てくれる夫なんて、この日ノ本のどこにもいるはずがない)
強烈な震えを胸の奥に感じた。
誰にも見せずにいた涙が目尻に溜まる。
帰蝶ははしたないと思われない程度に信長の胸元に寄りかかり、またもその熱を感じ取った。
(我が殿……)
◇◆◇
「まさか、織田の御曹司がやってくるとはな……仕方ない、ここまでか」
激しい破壊音と、信長が吐いた名乗り上げと哄笑がここまで聞こえてきた。
イサクァと対峙していた〈悪霊〉の武士は刀をそのままにして、一気に身をひるがえす。
そのまま脱兎のごとく走り出した。
虚を突かれたからか、イサクァの反応が遅れ、慌てて投げた手斧はかすりもせずに逃げる時の盾にされた木の幹に突き刺さった。
このまませっかく見つけた獲物を逃がしてたまるものかと追おうとしたが、東の方角―――尾張へと少女を抱えた〈歩む死〉の少年と精霊の馬が走り去るのを見て方針を変えた。
イサクァにはこの小屋周辺の土地勘がない。
曲がりなりにも数か月間棲みついていた尾張の土地と異なり、もし多勢に囲まれたら逃げるのが難しくなる。
あっちが派手な動きをしている間に逃げだすべきだった。
せっかく見つけた宿敵であったが、愚かな深追いをして〈悪霊〉の返り討ちに会うのはショショーニの生きざまにも反する。
草原の部族は果てしない夢想家でもあるが、徹底したリアリストでもあり、なにより無駄な死には意味を感じない。
イサクァはすっとこの場からの離脱を始めた。
(臭いは覚えた、ヒノモトの〈悪霊〉よ。次は逃がさぬ)
断固たる決意を胸に秘め、忍びや山窩と変わらぬと評された身軽さで、彼は信長から借りた馬のもとへまで忍び去っていった……