大うつけと呼ばれた信長は、湯帷子の袖をはずし、半袴をはき、火打ち袋などをぶらさげ、髪は茶筅に結い、紅や萌黄の糸で結び、太刀は朱鞘のものを佩いていたという。
付き従う小姓たちは全員を赤武者とし、行儀は悪く、町では人目も憚らず柿や瓜をかじり、餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって歩いていた。
その頃の那古野城下は穏やかで品のよいものであったから、この有様は大うつけとよばれるほかなかったと云われている……
那古野城下は、信長による関所の部分的な廃止の影響で尾張の国の中でも随一の他国人が自由に出入りできる土地となっていた。そして、自由な人の流入というものが経済を豊かにすることは今も昔も変わらない事実である。
もともと信秀による津島と熱田の二つの港を利用した海上貿易によって巨額の利益をあげて栄えていた尾張国であることもあり、信長の代になって那古野はかつてよりもはるかに豊かになってきていた。
その分、他国の間者や刺客といったものどもや治安を乱す荒くれものも容易に入り込みやすくなってくるため、ただの民には手に負えない事件も起きてくる。
その一つが殺し合いに発展するほどの喧嘩であった。
「なんだ! わしを誰だと思うておる!」
「ふん、いまどきそんなこせこせした振る舞い、せいぜい京の都からはじきだされた田舎侍だろうさ。おまえなんかを雇うような酔狂もんはいねえ! ここのうつけ様ですら雇いやしねえよ!」
「なんだと、貴様ぁ!」
信長の発案で、常よりも幅を広げた城下の路上で年かさの武士が若者と怒鳴りあっていた。
通りすがりのものも商人たちも遠巻きに眺めている。
人の出入りが激しくなったことにより、人間同士の単純な軋轢が増え、このような騒ぎが頻繁に起こっていることから、慣れきっていたといってもいい。
騒ぎを無視して、道端での商談を再開する度胸のあるものたちもいる。
賭け事にならないのは胴元がいないからだが、仮に胴元に名乗りを上げるものでもいれば確実に即席の賭場が開陳したに違いない。
そこまでよくある光景であったのだ。
年かさの武士は、確かに指摘の通りに京から落ちてきたのだろう。
逆に、若者は那古野の繁栄に惹かれてやってきたいかにも田舎の若者といった様相だった。
織田家がイキのいい若者を求めているという噂を聞きつけてやってきたに違いない。
最初のうちはまだお互いにただの口論ですんでいたが、そのうちに双方共に頭に血が昇ってきたのか、ほぼ同時に刀を抜いた。
抜刀の速さは年かさの方が速い。年の功といったところか。
若者が完全に抜ききる前に、裂ぱくの気合とともに刀を振り下ろす。
だが、それは血を見ることなく弾き返された。
横合いから突き出された槍が刀を巻き取ってあらぬ方向へと飛ばしたからである。
「そこまでにしておけ」
年かさの武士は目の前に槍の穂先を突きつけられ動くことができず、ようやく刀を抜いた若者も背中にちくりと刺さった刃物の痛みと放たれる殺気に硬直した。
完全に血が流れかけた現場を制圧したのは二人の少年武士であった。
どちらも真っ赤な羽織を着て、朱い袴を履いている。
「よくやったぞ、又左、勝三郎」
「御意」
人垣が割れて一頭の馬が現れた。
現れたのは髪を茶筅に結ったこの国随一の大うつけと称される三郎信長であった。
(これが尾張の……)
制止された二人が同時に同じ感想を抱いた。
とても武士の子―――しかも守護代の嫡子とは思えぬ傾いた格好をした少年であった。
最近袴はおろか、半袴ですらはくことが少なくなった信長は、馬の上で片足を立てて静かに武士たちを睥睨した。
「おれの町で騒ぎを起こすな。商いをやっているものどものやる気がそがれる。戦いたいというのなら、うちで雇ってやる。そこの城に行って、平手の爺に会ってこい。いいな。又左、つきあってやれ」
「御意」
驚く暇もなく、喧嘩を起こした二人は前田利家とその家来に連れられて城に連行された。
血の気の多いものをこうやって強引に雇っては兵力を増やすのが、ここしばらくの信長のやり方であった。
当然、訓練は辛いものとなるが、それでも残ったものは織田勢に組み込むことによって、せっかく豊かになった国を守らせようというのが信長の考えである。
「しかしだ、又左。おまえの格好にはまだまだ朱が足りなすぎる。この次までにもっと朱いものを増やすようにしろ」
主人の命で仕方なく傾いている前田利家が泣きそうな顔でうなずくのを尻目に、また城下を勝手気ままに歩き回るために駆け出した信長を恒興たちが追っていく。
これが那古野城でよく見かけられる風景であった。
◇◆◇
「お濃、帰ったぞ」
庭先から大声をあげて信長が帰ってきた。
帰蝶がいそいそときざはし際へと出迎えると、いつものうつけの格好をした夫であった。
「お帰りなさいませ。食事の用意はしてございます」
「おう、食おう!」
十六歳となった信長は、以前と比べても言葉遣いが随分と乱暴になった。
婚儀のときはまだ漂わせていた気品に満ちた御曹司の顔は完全にどこかへ消え去ってしまっていた。
もっとも、腰元がうやうやしく差し出した膳に乗った飯を大口ではあったが、ゆっくりと噛み嚥下する姿にはかつての面影が残っている。
城下町で柿や瓜をだらしなく食べている様子とは明らかに違う。
帰蝶はつい、ふふと微笑んでしまった。
「何が、おかしい? 云うてみよ」
「殿が無理をしていらっしゃるようなので」
「無理などしておらぬ。……どうして、そう思った?」
すると、帰蝶は冴え冴えとした美貌に、含みを持たせた笑みを湛えて、
「袖を外した湯帷子も、獣の皮の半袴も、イサクァの真似でございますからね。あの異人に兄弟の如き心をお求めになられている殿の胸の内を思いますと、結構だとしか言いようがございませぬ」
優しい母のような言いぐさであった。
聞いている信長は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「なぜ、このおれがあんな馬盗人などを兄弟と呼ばねばならぬのだ。そもそも、おれの兄弟には勘十郎も安祥城の信弘もおる。とんとおかしなことをいう女じゃ」
「殿のお心をこの帰蝶以上にわかっているものはおりませぬ。帰蝶の次にということであれば、まあイサクァでしょうか」
「世間知らずめ。そんなことがあってたまるものか」
そういうと、真っ赤に染まった顔を隠すかのように椀を持ち上げて米をかっ込み始める。
袖を口に当てて、艶めかしく笑う帰蝶はとても信長の一つ下とは思えぬ色気を漂わせていた。
まだ臥所で寝てもおらず、真の意味で女にもなっていないというのに、ここ一年ほどの間に一気に開花したような美しさがある。
むしろ、信長の方が気後れしてしまう。
照れ隠しに飯を食らうしか抵抗の術がない。
「おまえはおかしな女だ」
「大うつけの殿ほどではございませぬ」
政略が結びつけたのでありながら、よく似た夫婦であった。