この年、尾張の熱田に松平竹千代(のちの徳川家康)が幽閉されているのには理由がある。
松平家は岡崎城を拠点として、岡崎を領土とする土豪であったが、その領地は小さく、駿河の今川と尾張の織田に挟まれる弱い立場に立たされていた。
どちらかを選ばなければ存続できない状態となった当主の広忠は、駿府の今川義元の庇護を受けることを選び、嫡子を人質として送ることに決めた。
代わりに今川家の援助を受け、かつて織田信秀に奪われた安祥城を取り返そうと画策したのである。
しかし、岡崎を出発した竹千代は、田原城の戸田家の裏切りにあい、織田信秀のもとに送られてしまう。
信秀はこれを僥倖として、広忠を今川家から味方に引き入れようとしたが、広忠はこれを拒み、今川家への義を貫いた。
当然、見せしめのために竹千代を斬ろうとする意見も出たが、まだ利用価値があると判断した信秀は熱田の加藤図書助に屋敷への軟禁を命じたのである。
父親に見捨てられたといっていい竹千代であったが、哀れと思った信長がなにくれとなく世話を焼くようになっていたのである。
(もともとは、おれが親父殿の命で大浜を焼いたのがもとではあるしな)
初陣の信長が吉良大浜の戦いにおいて、長田重元の帰る場所を焼き払い、三河の領土をかすめとったのが、広忠が今川と組もうとした原因でもあった。
信長も武士である以上いくさによる結果について罪悪感を覚えることはない。
ただ、そのために父親に人質として差し出され、姻族に裏切られて、敵地に幽閉されることになった七歳の子供が哀れで仕方がなかった。
ある意味では母親に捨てられた自分の替わりのようなものだったのかもしれない。
三河の弟と呼んで、川乾しや野駆けに連れて行くなど、家臣たちから見ても珍しい扱いをしていたのである。
そのため、憎い敵の息子であっても、竹千代は信長のことを好いていた。
三河の弟に対して、尾張の兄上とまで慕っていたのである。
「―――竹千代さま。どうなされました」
加藤図書の妻女が声をかけてきた。
同年代の家来たちをつれずに庭に出ていた竹千代が振り向く。
この屋敷では敵の人質という身分でありながら、彼はかなり大切に遇されていた。
信秀の意向というよりも、頻繁に顔を見にやってくる信長の勘気を蒙りたくないということがある。
加えて、もともと竹千代は七歳にしては辛抱強く泣き言を言わない性格だったということがあろう。
後年の天下の覇者家康としての個性がすでに育ちつつあったともいえる。
家康は対処しがたい難問に接したとき、常に「さほどでもない」と繰り返し決して降参しないという辛抱強さが長所であった。
「なんでもない」
そうは見えなかったので妻女が再び問うても、
「いいや、なんでもない」
と首を横に振るだけだ。
ご家族が恋しくて一人になりたいのだろう、と勝手に解釈してから妻女は離れた。
岡崎から付き従ってきた同年の家来をも遠ざけていることからそう考えたのだ。
子供にしては辛抱強いという性格からすると、そう遠くもない判断だろう。
ただ、この夜に限ってはそうではなかった。
会釈をして去っていく妻女に一瞥もくれず、竹千代は加藤屋敷の庭を歩き、登りやすそうな木にしがみついた。
慣れているため、するすると立つこともできる太い枝まで上がる。
そこからは塀の外が十分に見渡せた。
かなり遠めだが、夜の帳の中に赤く光るものが見えた。
炎の明るさだった。
刻限からしてもまだ陽が出るはずがないのだから、ありえる可能性としてはそれしかない。火事だ。しかも、かなりの大火だ。
「……凄い。ここから見えるなんて」
厠に行こうと寝具からでて、軟禁先の離れの渡り廊下を歩いているときになんとなく北の空が明るくなったように見えたのだ。
好奇心に駆られて庭に出てみたが、高めの塀に遮られてなにも見えない。
では、どうするべきかと思索していたときに加藤図書の妻女に声をかけられたというのが真相だった。
家族恋しさのあまり泣きくれることもあったが、子供らしい素直な好奇心も持ち合わせていたのだ。
もっとも、眼を眇めてみても火事の様子はほとんどわからない。
「何が燃えておるんじゃろう……」
人質であることから、加藤屋敷から自由に外出は許されない。外に出られるのは、気にかけてくれる尾張の兄上が連れ出してくれる時だけ。
だから、竹千代はこの地域の細かい地図はまったく把握していなかったので、どの辺の何が燃えているかも見当がつかなかった。
「屋敷の誰も気にしていないのは遠いからかな……」
加藤屋敷には見張り番を含めて数名の家来が詰めているだけで、今日は当主の図書助も集まりがあって戻ってきていない。
延焼の恐れがない限り、わざわざ反応するのも面倒だということだろう。
しばらくの間、木の枝の上で小さな明りをじっと眺めていると、視界の端に何やら動くものが入ってきた。同時に足音も。
塀の外を走っているものがいるのだ。
しかも、どこかへと走り抜けるというわけではなく、塀に沿うよう小刻みに走っては止まり、止まっては走るを繰り返している。
明らかに人目を避けての移動だ。
屋敷の正門と裏門を避け、塀にとりついて何やら動いている。
外側から何者かが顔を出した。
わずかな月明かりでは顔はわからない。
そいつは足をあげてとっかかりを作ると、そのまま身体を持ち上げて塀の上に立った。
身のこなしは軽く、まったくの無音だった。
(曲者だ!)
いくさの時でもないのに、武家の屋敷に塀をよじ登って入り込もうとする輩がまともなはずもない。
金目当ての押し込み強盗の類いという可能性もあるが、それよりも頭に浮かぶのはたった一つだ。
(竹千代が目当てなのだろうか?)
岡崎城から父親の広忠が送った救出のための手勢かもしれない。しかし、最悪なのはもう一つの考え。
(……竹千代を殺しに来たのかもしれない)
自分がお荷物なのはわかっている。
父親が自分を見捨てて領地の安泰を望んだことも知っている。
織田家の家中には、松平への見せしめのために殺してしまえという強硬な意見があることも。
強硬策を唱えるものは、実際に竹千代が死んでしまえば問題は残らず解決するといった楽観的な考えのものもいるのは加藤図書助からそれとなく聞いていた。
だからこそ、安全のためにも竹千代は外出を避けていたのだ。
(もし父上の手のものならば、事前に報せてくるはずだ。でなければ、尾張に入った苦労が水の泡になることもある。―――ならば、あやつらは……)
樹上ではすぐに居所がばれる。
竹千代は急いで地面に降りた。
慌てていたせいで足にしびれが走る。
それでも同じ場所に留まっていては見つかってしまう。
屋敷に向かって走り出した。
しかし、その必死な動きはすぐに補足されてしまう。
足元に槍が突き刺さり、躱しきれずに柄に脛がひっかかってしまう。
「痛い!」
思わず声に出してしまった。
立ち上がろうとする間に追いつかれ、背中をぎゅっと踏まれた。
あまりの重さと痛さに肺が圧迫され声も出ない。
「おっと、こいつが三河の人質の餓鬼か。……声を出すなよ、手が滑るかもしれねえ」
竹千代の眼前に槍が突き立てられた。穂先に赤い錆びのついた禍々しい槍であった。
「おまえには恨みはないが―――悪いのは斎藤とつるんだ織田ってことにしてくれよ」
頭上に恐ろしいほどの殺気が高まっていったとき、パンと音がして背中の圧迫が緩んだ。
誰かが地面に倒れ伏す。
(鉄砲!)
信長に一度だけ見せてもらった南蛮の武器の破裂音だ。
誰かが鉄砲を使い、竹千代を踏みつけた男を射殺したのだ。
そして、声がした。
安心できる兄のものだった。
「そいつを殺されるとちぃとばかり困るんだよ」